佐伯さんの作った夕食 二 武寧王の謎
田沼はしばらく考えている様子だったが言葉を続けた。「武寧王が筑紫洋上の島で産まれたから、斯麻君と名付けられたという記事は日本書紀だけに見られることだ。だから、極端な事を言ってしまえば、この話は作り話かもしれない。しかし『しま』という発音はどうも日本語の『島』に由来するように思えるから、まるきりでたらめの話とも思えない。しかしながら、さっきも言ったように、百済王の子を孕んだ臨月の女を、弟王子につけて外国に人質に送るというのは、あきらかにフィクションが混ざっているように思える。この話の中の武寧王が倭国の島で産まれたという事はどうやら真実のように思える。・・・問題は。どうして武寧王が日本の島で産まれたかだな。どうも王の親がだれだか出自がはっきりしない。百済王室は高句麗の侵略にあって、おそらく全滅に近い状況だったのではないかな。これは、僕の推量だが武寧王は、おなじ王族でも、そうとう相続順位の低い位置にいたのではないかな。書紀によれば王の親とする昆支は、日本に定住してある氏族の祖となっているんだけど、百済本紀によれば百済にもどっているのだ。恐らく百済王族の全滅が、武寧王とその父などの帰国の原因なのではあるまいか。こうした事情が武寧王の出自の混乱となって現れていると考えていいのではないかな。・・・ともかく、武寧王となる斯麻君は、日本のどこかの島で産まれたことは、ほぼ間違いではない。
日本書紀執筆者(恐らく、太安麻呂)は、この出生にまつわる出来事を異常にウソっぽく、かつ克明に書くことで、このエピソードが改竄されていることを示そうとしているのだ。斯麻王の島は加羅島などでなく『筑紫島』であった可能性が高い。斯麻王が親と定住していたとすれば、島とは『筑紫島』としか考えられないではないか。
定住していたところを『筑紫島』であったとは書紀は書けまい。書紀が斯麻王の出自を百済王の子として無理矢理書き、筑紫洋上の加羅島で産まれ、すぐ母国に送り返したと書くとき、その反対の意味をとらねばならない。つまり、斯麻王は筑紫島で産まれ、筑紫の王(倭国か)の血を受けていると言うことを暗喩していると言うことではないかな。その事実を書いてしまったら、大和王朝は地方の王族の立場に転落してしまうからね」