佐伯さんの作った夕食
佐伯さんは微笑みながら言った。「美味しい物をご存じの田沼先生には、つまらない料理でしょうけど、ガマンして下さいね。大根と鶏肉の煮物・きゅうりとワカメの酢の物・大根おろしとシラス・大根葉の菜めし・それから私の自家製の、新ショウガ甘酢漬けと煮アワビを用意してみましたけど、どうかしら?」
「うあ、うまそうだな。三浦半島の新鮮な産物がメインテーマで良いね。ちょっと身体に悪そうだけど、今日だけは、とっておきの、灘の『純米桜正宗』を飲むかな。この桜正宗は、いわゆる何とか正宗の元祖で、名門中の名門なんだ。有名酒造メーカーのように生産量第一主義で手を広げて来なかったから、今も余り知られていないんだが、日本酒党には根強いファンがいるんだ」
祐司はそれを聞いて嬉しそうに笑って言った。「例の一升五千円なりの銘酒ですね。そりゃあ良いな」
三人は応接間からキッチンのテーブルに座を移した。
「さすが、料理上手で知られた佐伯さんの腕ですね、こんなに美味しいのなら、年の差は目をつむって、奥さんになって欲しいくらいです」
「あのね、こんなおばさんにも好みがあります。祐司君はオ・コ・ト・ワ・リ。・・・でも、少し、考えてもいいかな!」
「じょ、冗談ですよ。真に受けないでください」
「田沼さん、私ね、歴史も好きなんです。田沼さんのシリーズ本も読んでるんですよ。ですからどうぞ、遠慮なさらず、今のなんて言うんですか、日本書紀の謎に迫る話をどんどんしてくださいね」
「おや、うれしいな!それでは遠慮せずに話が出来ますね。それでは、ぼちぼち話をすすめますか」
「どうも、この時代の百済の系図は、不明な所があるみたいだね。これでは武寧王が誰の子だか解らないな。いずれの子にしても、武寧王は、百済史においては、重要な中興の王なんだが、書紀の書き方をみると、武寧王の出自をあえて曖昧にしているように見える。これは何だろうかね。武寧王は生存中は『斯麻王』と呼ばれていたのは事実だ。武寧王は、斯麻王が亡くなってからつけられた名前だ。この『斯麻』は、筑紫の各羅の事だと書紀は妙に子細に説明する。また、この子は百済王の息子だと強調する。この書き方をひっくり返すと、武寧王の産まれた島は本当は筑紫の本島で、筑紫の女を母としていると語っているように思える。こうした事実を隠したいのは、日本も韓国も同じ事情だと思う。武寧王の出自が、筑紫・・・恐らく筑紫の王の娘であってはならないからなのだ。11世紀の高麗国の正史に、日本人の血を受けた王の存在を書くことは難しい。また、720年の大和国にとっても、百済の王、東城王、武寧王と続く二代の王が、筑紫の王に関わりが深いという事などは決して明らかにしたくない事だったに違いない。何故なら、百済が人質を出していたのは、筑紫を中心とした『倭国』だったのだから。このことを裏付けるように書紀の文中で『昆支は百済から子供を連れてきた』と強調するのだ。昆支の子供も倭種であってはならないのだ。良く考えてみれば人質である昆支が子供を引き連れて(と、言うことは妻も引き連れて)日本にやって来るというのは、どうしても変である。この二代の王が筑紫に深い関わりがあったことを書紀は隠蔽したいのだ。では何故隠蔽したいのか?ここで僕がひどく強調したいことは『筑紫には倭国があった事が判明してしまう』からなんだよ。僕が今度の飛鳥の旅行で感じたことは、脆弱な飛鳥政権には、今まで調べてきたような、新羅への侵略だとか百済との友好だとかは出来ないという事なんだ。これだけの侵略が全部本当ではないにしても、何割かは真実であったろうからね。その侵略の主は筑紫の軍船に違いないと思うのだよ」