武寧王の秘密
「その通りだね。・・・1971年にソウル南方125キロの公州市(かっての百済王都熊津)の発掘した宋山里古墳群から、墓誌に斯麻王の名が刻まれた墓誌が出てきて、この墳墓が斯麻王(武寧王)のものであることがわかったのだ。墓誌の文はこうだ。
寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戊朔七日壬辰崩到
この文に書かれる癸卯年は523年にあたることが、推測できるのだ。この墓誌には斯麻王という「斯麻」という文字が使われていることに注目すべきだね。「斯麻」は、日本語の「島」の音表記で、韓国語ではないのだ。このことは、書紀の雄略天皇五年条の武寧王が、日本の島で産まれたというエピソードを裏付けるものと考えても良さそうだ。まあ、それは事実として、王の子を孕んだ母が臨月で、弟に嫁いで、外国へ危ない旅に出る。それで産まれたら母子を送還しろ・・・と言った話しは、きわめてあやしいな。だって、これは王命であろうとひどく失礼でばかげた話ではないか。
書紀では武寧王の出自に関しては、原典となる各書が矛盾している。武寧王の父親は形の上では百済、東城王の弟、軍君(昆支王)だが。軍君は王の子を孕んだ女を妻に貰ったのだから、産まれた子、武寧王は実際は蓋鹵王の血を分けた子供なのだ。しかし、三国史記には、書紀に書くような事情が書かれず、
『武寧王は諱は斯摩といい、東城王の第二子である。・・・』と書かれているのみなのだ。
書紀では東城王は雄略23年(479年)4月条に
百済文斤王薨せぬ(亡くなった)。天王は昆支王の五の子の中に第二にあたる末多王が若いのに聡明なので、命じて内裏に呼び寄せた。天王自ら末多王の頭を撫でて、丁寧に百済王たるべき事を述べた。よって兵器を授けて、合わせて筑紫の軍士五百人を遣わして百済の国に守りて送らせた。これをもって東城王とす。
つまり、書記では東城王は、昆支王の子であるのに、百済本紀では武寧王の父とされているのだ。書紀では蓋鹵王が武寧王の父であって、系図にひどい差異があるのだね。まあそれは置いておくとして・・・注意してほしいのは、武寧王が『東城王の第二子』であるのなら、せっかく子供を孕んだ婦を弟にあげて、日本に送るわけがないことは、祐司君解るよな」
「そうです、王制度にとって王子・姫は制度の維持に非常に大切です。まして二番目に出来た子供を手放すわけがないと思います。」
「ふむ・・・」田沼は少し困った顔で頭を搔いた。
そのとき新賄いの佐伯さんが入ってきた。そして言った。「お食事用意できました。テーブルの方に運びましょうか」
「ああ、ちょうど良かった。今日はこのぐらいにしておこう。あとはお酒!」