表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

113/249

武寧王の秘密

「その通りだね。・・・1971年にソウル南方125キロの公州市(かっての百済王都熊津)の発掘した宋山里古墳群から、墓誌に斯麻王の名が刻まれた墓誌が出てきて、この墳墓が斯麻王(武寧王)のものであることがわかったのだ。墓誌の文はこうだ。


 寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戊朔七日壬辰崩到


 この文に書かれる癸卯年は523年にあたることが、推測できるのだ。この墓誌には斯麻王という「斯麻」という文字が使われていることに注目すべきだね。「斯麻」は、日本語の「島」の音表記で、韓国語ではないのだ。このことは、書紀の雄略天皇五年条の武寧王が、日本の島で産まれたというエピソードを裏付けるものと考えても良さそうだ。まあ、それは事実として、王の子を孕んだ母が臨月で、弟に嫁いで、外国へ危ない旅に出る。それで産まれたら母子を送還しろ・・・と言った話しは、きわめてあやしいな。だって、これは王命であろうとひどく失礼でばかげた話ではないか。

 

 書紀では武寧王の出自に関しては、原典となる各書が矛盾している。武寧王の父親は形の上では百済、東城王の弟、軍君こにきし昆支王こんきおう)だが。軍君は王の子を孕んだ女を妻に貰ったのだから、産まれた子、武寧王は実際は蓋鹵王の血を分けた子供なのだ。しかし、三国史記には、書紀に書くような事情が書かれず、

『武寧王はいみなは斯摩といい、東城王の第二子である。・・・』と書かれているのみなのだ。


書紀では東城王は雄略23年(479年)4月条に


 百済文斤王(もんこんおう)みうせぬ(亡くなった)。天王すめらみこと昆支王こんきおうの五の子の中に第二にあたる末多王またおうが若いのに聡明なので、命じて内裏に呼び寄せた。天王自ら末多王の頭を撫でて、丁寧に百済王たるべき事を述べた。よって兵器を授けて、合わせて筑紫の軍士五百人を遣わして百済の国に守りて送らせた。これをもって東城王とうせいおうとす。


 つまり、書記では東城王は、昆支王の子であるのに、百済本紀では武寧王の父とされているのだ。書紀では蓋鹵王が武寧王の父であって、系図にひどい差異があるのだね。まあそれは置いておくとして・・・注意してほしいのは、武寧王が『東城王の第二子』であるのなら、せっかく子供を孕んだ婦を弟にあげて、日本に送るわけがないことは、祐司君解るよな」

「そうです、王制度にとって王子・姫は制度の維持に非常に大切です。まして二番目に出来た子供を手放すわけがないと思います。」

「ふむ・・・」田沼は少し困った顔で頭を搔いた。

 そのとき新賄いの佐伯さんが入ってきた。そして言った。「お食事用意できました。テーブルの方に運びましょうか」

「ああ、ちょうど良かった。今日はこのぐらいにしておこう。あとはお酒!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ