三国史記中の百済本紀と異なる、百済新選について
「日本書紀の武寧王の話はまだ続く。百済に母と共にかえらせた子が、やがて百済を中興する武寧王となったという。ちなみに倭に使わされた軍君はこの年の七月、倭の京に、五人の子と共に入った。、ここで書紀は『百済新撰』という書名を出して、『辛丑年に蓋歯王(加須利君)が、弟の昆支君を遣わして大倭に行かせ、天王にお仕えさせた。そして兄王の友好を深めた』とある。
・・・もちろん、ここにいう『百済新撰』は、日本の時代で言えば平安末期に書かれた『百済本紀』ではない。僕の持っている百済本紀には、このような記事はないからね。余談だが、百済本紀を含む三国史記が成立する前に、韓国には『百済紀』『百済新撰』『百済本紀』という、通常、百済三書と呼ぶ、今は現存しない古史書があったようなのだ。
書紀が書名を出して文を引用しているので、逸文として 今にのこっているんだね。これらの内容は、今残っている『三国史記』とだいぶ内容が異なるようだ。百済三書は当然のことながら、書紀が成立する西暦720年には成立していたのだ。・・・しかし、それはそうとして、兄王の子を孕んだ女をもらって、日本に来るというエピソードは話としては随分異常な話だね。この話は、日本書紀に載っているだけで、百済本紀にはない話だ。どうもこの話は嘘くさいね。書紀は一体どういうつもりでこの話を採録したのかな。武寧王という名は、王の死後つけられた名前で、生存中は斯麻王と呼ばれた。この『斯麻』は日本語の『島』という音を、漢字の音であらわしたものだ。また近年王の墓が発掘されたが、なんと王の屍骸を納めた木棺が、日本にしか産しないコウヤマキだったというのだね。その両方から考えると、武寧王は、書紀の書くところよりも、もっと倭の血筋であったように考えられないだろうか。日本書紀は何かを隠している僕はそう思うのだが、どうだろう」
「そうですね・・・武寧王に倭国の血が流れていたということを、書記は隠蔽しているように見えます。実際は、倭王の子である可能性がありそうですね。それなら、倭国にとっては誇らしい事なんですから、ここでそのことを高らかに歌い上げてもいいところなのに、それを隠そうとして、こんな変な話になったのでしょうか?」