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三国史記から突然消え失せる倭国

「西暦500年にそれまでの少ないとはいえない倭国の記事は三国史記からこのように消え失せるんだが、はたして史実はこの通りだったのだろうかね。この頻繁な新羅侵略もかなりウソっぽいが、まるごとウソとは言えない。証拠のその一は広開土王碑だね。何と云っても、一級の歴史的史料だからね。高句麗国王が『倭国は百済、□□、新羅を襲って臣民としたと』と石に文字を刻んでいる事はうそだというなら、もはや歴史学はなり立たない。それがウソでなかったことは三国史記の記事が見事に整合していることで証明されるのではないかな。・・・さて500年の新羅本紀の記事を最後に倭国の記事が忽然と消え去る事には不自然な感じを僕は受けるね。三国史記では倭国の記事は消え失せるが、ちょうどその頃の百済、武寧王ぶねいおう(在位501-523年)について、百済本紀には書かれていない倭国との事情を日本書紀は克明に書きしるしているのだね。それはこうだ・・・


 雄略天皇五年(461年)四月条 百済の加須利君かすりのきみ(第二十四代百済東城王在位479-501)は弟の軍君こにきしに『汝は日本やまとに行って天皇に仕えなさい』と言った。軍君は答えて言った。『君の命に叛くことはできません。願わくば、君の婦人を頂いて、それから遣わしてください』

 加須利君は、これによって孕んだ婦人を軍君に嫁がせて言った。『私の子を孕んだ婦はすでに臨月になっている。もし行路で産まれたならば、できれば母子を、どこからであろうと、速やかに百済に送らせなさい』

 軍君こにきしは、こうして日本に遣わされた。六月一日孕んだ婦は、王の言ったように、筑紫の各羅島かからしま(佐賀県東松浦鎮西町加羅島か)で子を産んだ。これによって、この子を名付けて嶋君せまきしと言った。それで軍君は、母と子を一つの船に乗せて、百済に送った。

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