倭の新羅侵略と百済との友好 年表 四
「407年三月、倭人が東部の辺境に侵入した。(新羅本紀)
六月、また倭人が南部の辺境を犯し、百人を奪った。(新羅本紀)
408年二月 王は倭人が対馬に軍営を置き、兵器や資材・食糧を貯えて、わが国を襲撃しようと準備しているとの情報を得た。王は倭軍が動き出す前に精兵を選び敵の基地を撃破したいと思った。しかし臣下の言うには『大海を渡って万一勝利出来ないなら、悔やんでも追いつきません。ですから険しい場所に関門を設けて、賊軍が来たならば侵入して悪いことをさせないようにさせましょう。(新羅本紀)
409年 倭国が百済へ使者を派遣し、夜明珠を送ってきた。王はその使者を熱厚く礼遇した。(新羅本紀)
411年 王子卜好高句麗への人質とした。(新羅本紀)
415年 倭人と風島で戦い、これに勝った。(新羅本紀)
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ってきた。(新羅本紀) 夏、使者を倭国に派遣し、白の綿十匹を送った。(百済本紀)
428年 倭国の使者がやって来た。使者にしたがってきた者が五十人いた。(百済本紀)
431年 四月 倭兵が侵入して東部の辺境を犯した。明活城を包囲下が得るところなく退却した。
433年 七月 使者を新羅に派遣し、和親を(国交)を要請した。(百済本紀)
434年 二月 使者を新羅に派遣し、良馬二匹を送った。九月、また新羅に白鷹を送った。十月新羅が答礼使を送って、良金と明珠をもたらした。(百済本紀)
440年 倭人が南部の辺境を犯し、住人を掠め奪って逃げた。
444年 四月 倭兵が十日間も金城を包囲し、食糧が尽きたので引きあげようとした。王が出兵してこれを追撃しようとしたが、重臣たちが『兵法家の説では、窮地に立った賊軍は追撃してはならないと言っております。王は、追撃しないように命じて下さい』王はこの意見を聞き入れないで、数千余騎を率いて追撃し、独山の東で合戦したが、賊軍に敗北し、将兵の大半が戦死した。王は慌てて馬を乗り捨て、山に上がった。続軍はその山を幾重にも囲んだ。その時突然濃霧が出て一寸先も見えなくなった。賊軍は王に神の加護があるのだと軍隊をまとめて帰った。
459年 四月 倭人が兵船百余隻を連ねて東海岸を襲撃し、さらに進軍して月城を包囲した。四方から放たれた矢や石は雨のようであったが王城を守り抜いた。賊軍が退却しようとしたので、城内の兵を出してこれを討ち取った。逃げるのを追って海岸に至った。そのため賊軍で海に落ちて溺死する者がほとんどであった。
462年 五月 倭人が襲来して活開城(不詳)を陥し、一千人を連れ去った。
463年 二月 倭人が襲来して、歃良城(韓国釜山至近・南東海岸部、対馬が海上にある)を攻めたが、勝てずに退却した。倭人がしばしば海岸に侵入するので、海岸地帯に二城を築かせた。
476年 六月 倭人が東部の国境地帯を犯した。王は将軍徳智に命じて、これを打ち払わせた。この時倭軍の二百余人を殺したり虜にしたりした。
この後も倭人の来襲は続くのだね。477年。482年。486年。497年。500年。小競り合い程度の侵略が続くにだが、500年を境についに、新羅本紀に倭の記事はとだえるのだね」
祐司はホットしたように言った。「そうなんですか」