倭国の新羅侵略・百済との友好・高句麗との戦い 年表 三
「287年 四月 倭人が一礼部を襲い、村々に火をつけて焼き払い、一千人もの人々を捕らえて立ち去った。(新羅本紀)
289年 五月 和兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。(新羅本紀)
292年 六月 倭兵が沙道城を攻め落とそうとした。重臣に命じて救援させた。(新羅本紀)
344年 二月 倭国が使者を派遣して、花嫁を求めてきたが、娘はすでに嫁に行ったとして辞退した。(新羅本紀)
345年 二月 倭王が国書を送ってきて国交を断絶した。(新羅本紀)
346年 倭軍が突然、風島(不詳)を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し、激しく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、重臣が『賊軍は遠くからやって来て、その熱意にはかなわないものがあります。賊軍の疲れをまつべきです』と言った。王はこれをよしとして、門を閉じて兵を出さなかった。賊軍はやがて食糧が尽き、退却しようとした。王は精鋭な騎馬隊を率いて、退却する兵を追撃し、敗走させた。(新羅本紀)
364年 倭兵が大挙して進入してきた。王はこの報告を受けて、倭軍の勢力に対抗できないと考えて草人形を数千固作り、それに衣を着せて兵器を持たせ、山の麓に並べて、勇士一千名を野原に伏せさせて待ち伏せさせた。倭軍は数を頼んで、まっしぐらに進撃してきたので伏兵を出動させて倭軍に不意打ちを掛けた。倭軍が大敗して逃走したので追撃して、倭兵をほとんど殺した。(新羅本紀)
392年 正月 高句麗が使者を派遣してきた。王は高句麗の国力が強大であるので、伊滄(新羅官位第二等)の大西知の子実聖を人質として送った。(新羅本紀)
高句麗の広開土王は四万の軍隊を率いて、百済の北部辺境を進行してきて十余城を陥した。(百済本紀)
393年 五月 倭軍が侵入して金城を包囲し、五日も解かなかった。将軍達は城を出て戦いたいと願った。しかし王は『いまは賊軍が船を捨てて内陸深く入り込んで、いわば死地にいるので、その鉾先は防ぐのが難しい』と言い城門を閉ざして持久戦に持ち込むと賊軍は得ることなく退却した。そこで王はまず勇敢な騎馬隊300人を派遣して賊軍の帰路を遮断して、その後に歩兵千人を派遣して独山に追い込み、はさみうちをして倭軍を大敗させ、多くを殺したり捕らえたりした。(新羅本紀)
397年 五月 百済王は倭国と好(国交)を結び太子の腆支を人質とした。(百済本紀)
400年 百済が倭国の臣民となったので、高句麗は兵五万をだした。また、新羅からも救援の願いがあったので倭軍と戦った。高句麗は加羅に侵入したが加羅の一国安羅によって反撃され、新羅の王城を占領された(広開土王碑文)
401年 王が死去した。高句麗の人質になっていた実聖が帰国した。(新羅本紀)
402年 実聖が即位した。三月、倭国と国交を結び、王子の未斯欣を人質とした。(新羅本紀) 使者を倭国に派遣して、大珠(恐らく真珠)を求めさせた。(百済本紀)
403年二月 倭国の使者が百済にやって来た。王はこの使者を特に丁重にねぎらい迎えた。(百済本紀)
405年 四月 倭兵が侵入して、明活城を攻めたが、勝つことができなくて帰ろうとした。王は騎兵を率いて独山の南で待ち伏せし、これを破った。倭兵三百余人を殺したり捕らえたりした。(新羅本紀)
百済の辰斯王が亡くなり、王弟の訓解が、当面の政治を執っていたが、王の末弟の碟礼が兄の訓解を殺し、かってに王となっていた。397年より倭国に人質となっている太子の腆支は父の訃報を聞き、大声を上げて泣き、帰国を要請した。倭王は百人の兵士をつけて送り、国境まで来た。この時、漢城の人、解忠が来て、
「大王がなくなると、王弟の碟礼が兄を殺し、自立しました。どうか太子は軽々しく国に入らないでください」と言った。腆支は倭人を留めて自衛し、海上の島に立てこもって時期を待った。そうこうするうち、百済の国内の人が碟礼を殺し、腆支を迎え、王位につけた。(百済本紀)
どうだね、この倭兵侵入の記事の多さは注目すべきだね。驚くことには三国史記中の新羅本紀・百済本紀の記事と広開土王の碑文が見事に整合することだ。大和国が、まだ飛鳥の地で太平に浸っている頃、三韓で倭国は動乱の中にいることは何を意味しているのだろうね!」