倭国の新羅侵略年表 二
「まあ、新羅という国は、こんな紀元前からある国でないことは、この新羅本紀のもっと後の方に書かれている、制度や地名を整えたという記事でわかることなのだ。新羅王智證(在位500-514年)の時、臣下がこう奏上したんだ。
「始祖が国を治めていらい国名が未だ定まっていません。ある時は斯羅と称し、ある時には斯廬と称し、ある時には新羅と称します。(中略)また始祖が国を建てて以来今日に至るまで指導者を国王と呼んでいません。今は臣下の一致した意見で新羅国王とお呼びしたいと思います」
そして、喪服の法を定めたり、洲・郡・県を定めたり、しているのだね。このことは、新羅本紀には何と書いていようと、西暦500年の時点で、新羅は未だ生まれたての国であったことを示していると思うんだ。この時代、新羅は多くの小国に別れていたと思われるが、国の古さを誇りたいという気持は、どんな国史にもあることなんだ。日本書紀も例外ではないね。その意図が、新羅本紀にも表現されているという事だね。しかしながら、全くのフィクションではなく、一部の真実は含まれているんじゃないかな。
佐伯さんが、コーヒーを入れて持ってきた。
「すいませんね。先生にごあいさつもそこそこにお台所をかってに使って、主婦めいたことをして、厚かましい女ですね」
「あ、いやいやぜんぜんかまいませんよ。こんな親父に気を遣わなくて結構ですよ。なんか荒れ地に咲いた百合の花のようなほのぼのとした方ですね。殺風景な我が家に光が差し込んだようですよ」
「まあ、先生、お上手ですね。お世辞が半分なんでしょうね」
「いえいえ。あ、そうだ、今晩は、二人のために夕食を用意してくれるということなんだ、祐司君楽しみだね」
「え、佐伯さんの手料理を頂けるのですか、それは嬉しいです。佐伯さんの料理はプロ級という評判ですからね」
「しかし夕食までまだ間があるね。もう少し三国史記の引用を続けるよ」
201年 加耶国が講和を申し込んできた。(新羅本紀)
208年 四月 倭人が国境を侵したので、軍事統括の王子、利音に軍隊を率いさせて反撃する。
209年 浦上八国(韓国、南岸部)が連合して加羅を侵略しようとした。加羅の王子が救援を求めてきたので、王は太子と利音とに命じ、六部(六の郡部)の兵を率いて救援させた。軍隊は八国の軍隊を撃破し、その将軍を殺し、六千人を捕虜として連れ帰った。(本文の注。加羅と加耶は、朝鮮語では同音異字で同じ国である。、三国史記では随意に使っているが、一般に加羅の名称は中国、日本などに対する国際的国号に用いられる。加耶は三国、加羅諸国内で、使用されたようである。加羅、加耶の名称は諸国全域の地名としても諸国内の一国を示すときも随時使用されている)(新羅本紀)
212年 加耶は王子を人質として送ってきた。(新羅本紀)
232年 四月 倭人が突然侵入して金城(王城)を包囲した。王が自ら城を出て戦ったので、倭軍は壊滅・逃走した。軽装の騎馬隊を派遣して倭軍を追撃し、一千人を殺し捕まえた。(新羅本紀)
五月 倭軍が東部の国境を侵した。(新羅本紀)
七月 軍統括の干老と倭人とが沙道で戦った。風向きを見て火をつけ倭軍の船を焼いた。倭兵は水に溺れてことごとく死んだ。(新羅本紀)
249年 四月 倭人が大将軍、昔于老を殺した。というのは、于老が、倭国の使いを客館でもてなしたとき、戯れに「そのうち、そなたの国の王を塩作りの人夫にし、王妃を炊事婦にしよう」と言った。倭王はこの言葉を伝え聞いて激怒し、兵を興して我が国を討った。于老は、倭の陣営に行き謝ったが、于老を許さず焼き殺してしまった。(新羅本紀ならびに三国史記列伝)