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田沼 鎌倉の自宅に戻る

 田沼は稲村ヶ崎の丘の上の自宅に戻った。早速、講師を務める清滝女子大学の図書館から三国史記を借りだした。改めて、田沼は三国史記(平凡社刊 1988年 初版 発行)第四巻の解題を読んだ。


 解題 鄭早苗ちょんちょみよ


三国史記は現存する朝鮮最古の史書であり、日本では「日本書紀」と対比してよく語られてきた。(中略)三国史記は「高麗史」(1451年朝鮮王朝の文臣・学者であった鄭麟趾ていりんしらが選進した)に「仁宋二十三年(1145年)条に金富軾きんふしきが命によって作り奉じた」とあり、日本書紀より425年遅れて撰上されたものである。(中略)1145年に撰進されたという年次の確認は、三国史記の「地理史」にあらわれる「金海小京は金官国で・・・今の金洲である」と記される「今の」という多くの箇所を検討した結果、三国史記は遅くとも仁宋二十一年(1143年)には完成したようで、1145年の王への提出は妥当であるとしてよい。三国史記が撰進された事情がどのようであったかは三国史記書中に記載はないが、遺文として残されている。


 臣(金)富軾ふしきが申し上げます。

 いにしえの中国列国は、それぞれ史官を置いて時事を記録していました。(中略)わが海東三国におきましても、その歴史は悠久で、その事実をすべきと、我が国の老臣に命じられ私が編集の任につきましたが、顧みますと、才が足らず編纂にしばしば困りました。、

 ひれ伏して申し上げることは、陛下におかれましては唐などの徳性を備えられ、夏国の勤勉を手本とされ、お忙しい中にも、そのわずかな閑に、前代の書物を数多くお読みになって「今の学士は五経や諸子の書物や秦・漢歴代の歴史に関しては広く通じ語る者がいるが、我が国の史実に至るに及んでは、全く無知である。これは非常に嘆かわしい事である。新羅・高句麗・百済、三国が鼎立していたために、競って中国に親しく通行していたから、三韓の王の列伝は『後漢書』『唐書』に詳しく転記された。しかしながら百済・新羅・高句麗の古史書は国内の事には詳しくとも、国外の事は簡略な記事しか書かれなかった。また文章が粗略かつ稚拙で、出来事の欠落も多い。したがって君子の善悪や、臣下の弱点、国の安危、人民の治乱を詳しく書き表す事ができず、後世への訓戒にできない。ここにおいて才のある者を得て、王一家の歴史を完成し、それを万世に残して、日や星のように明瞭にしたい」と、述べられた。

 しかるに、私ごとき者はもとより才能がなく、また深い知識もございません。まして、老人となりましたから日々にうとさは増し、読書に励もうとしても進まず。せっかく読んだ内容も忘れ、筆をとっても力をなくし、紙にすらすら書くことも出来ません。私の学術はこのように浅薄でありまして、それにもまして先代の事象は、依然不明であります。それゆえ、全力をつくしてやっとこの書ができた次第ですので、その成果はしれたもので、自ら恥じております。伏して陛下に望みますことはこの粗末な編纂をお許し下さって、その罪を与えられない事であります。しかしこの書が、名山に秘蔵するほどでもないにしても、どうか醤油に浸されることがないようにお願い申し上げます。


 


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