田沼 飛鳥への旅 九
奈良ホテルの朝は素晴らしかった。早朝目覚めた田沼はベッドの中で寝たまま、紫式部日記に目を通していた。そうしている内に窓は明るみ、田沼はけなげに小さな歯車をチッチと動かしているのが見える、自分のスケルトンの腕時計に目を落とした。まだ五時である。カーテンを開けると窓からは庭が赤いバラで充たされているのが見えた。田沼はフロントに電話してコーヒーを一つ、ルームサービスしてくれるよう頼んだ。
窓のガラス戸を細めに開けて、朝の外気をとりいれた。心なしかバラの香りがするようである。窓際のテーブルの上にコーヒーを置いて、砂糖を入れ、ミルクを注ぎ、スプンで静かにかき回した。濃厚で芳醇な液体は田沼の喉を過ぎ胃へとなだれ込んだ。
田沼は、回想に包まれた。昔、田沼が学生だった頃、演劇脚本作家の教授宅を訪れたとき、リビングルームの前の庭に赤いバラが咲き誇っていたこと・・・ああ、それから小学校五年生で、ヴァイオリンを習っていた時、先生宅の庭のアーチや庭が赤やピンクのバラで埋まっていたっけな・・・田沼には先生とバラは切り離せない印象があるのだ。
朝七時、ドアが軽くノックされた。沙也香がはいってきた。
「センセ、良く寝られましたか」
「いや、君を思って悶々としていた」
「まあ、ご冗談を」
「本当は、ガキのようによく寝た」
「でしょ。・・・すいませんね。私の仕事の事で、たった一泊で東京に帰るのに、同行してくださるなんて申し訳ないです」
「いや、いいんだ。閑そうな僕にだって結構用事があるんだよ。じつはラジオに取材される予定があるんだ」
帰りの新幹線まで、まだ間があった。朝の食事の後、二人はバラが咲く庭園のベンチに腰掛けて、先日の話の続きに入った。
「三国史記には、じつに多くの倭の進入が記載されているが、日本書紀はその事を書いていない。倭というのが、たとえ日本海沿岸部の海賊であったにしても、無記事というのは不自然ではないかな。まあこのことは一応、今はこのぐらいにしておこう。今、三国史記が手元にないものだから、韓地に対して、どれだけ多くの侵略がなされたかを列挙することができないのだ」
「そうなんですか。田沼さんにしては歯切れがわるいなと思ったら、そういう事なんですね」