田沼 飛鳥への旅 八
「この、広開土王の時代というのは磐井の乱が起こる200年前の事なんだ。また邪馬台国が当時の中国の王朝、魏へ使者を出した時からは200年後の事だね。 時系列にしてみると、(田沼は手帳を取り出し読む)
239年 邪馬台国魏へ遣使
414年 広開土王碑建立。倭国は百済 □□ 新羅などを臣民としていると刻字。
413年~502年 中国史書、宋書などによれば倭の五王、宋などに朝貢。(三国史記によれば、この頃、倭はひんぱんに新羅を襲う。日本書紀には倭の五王の記事、韓国侵略の記事なし)
507年~531年 書紀では 継体天皇在位
528年 磐井の乱 磐井死去
532年 倭国関連の任那諸国を新羅が併合
600年 隋書に、倭王阿毎氏、通称は多利思比狐、国に至るの記事あり。一大卒(統率本部?)をおいて『以北』の諸国を検察す。
644年 蘇我入鹿、飛鳥板葺の宮で天智天皇・藤原鎌足により誅殺される。
663年 韓国白村江で唐、新羅連合軍により倭の水軍大敗、百済滅亡。
694年 日本最初の縦横に道の走る大型な都、藤原京へ飛鳥浄御原宮(板葺きの宮と同所)から遷都
710年 平城京へ遷都
こうして、年表に表してみると、いまだ飛鳥や近江や難波の各地を宮家が転々としている頃、倭国は、広開土王の碑文や三国史記の記事に見られるように、韓地を侵略し、宋書の記事に見られるように、各代の王の使者が親書を持って中国を訪れたようだ。しかし、これは随分と無茶苦茶な話ではないだろうか。大和の国が倭国であるのなら、草深い田舎の国が、百済新羅を属国にしたり、はるか中国に使者を出しているということだからね。
だから、ひょっとすると大和の国は倭国と違うのではないだろうかという疑念に包まれるのだ。その疑念を補佐するのは、日本書紀に、倭の五王の使者の記事がないと言うことだ。これほどの大きな晴れがましい出来事ならば書紀に特筆されるはずなのに、その片鱗さえ残されていないのだからね。日本書紀が編纂成立される西暦700年の頃には、倭の五王について書いた、宋書は伝えられているはずであるのに、書紀の記事は、これを完全に無視しているのだ。これは意図的なものに違いない」
「そうですね、私にも飛鳥を歩いてみて、王国の小ささが実感できました。ところで今日は仕事であると言うことも忘れて、古代を楽しめました」
「ああ、だいぶ遅くなってしまったね。そろそろ部屋にひきあげるか」