田沼 飛鳥への旅 七
「広開土王碑と言う石碑が中国にはあるね。高句麗の広開土王の業績を刻した石碑で、広開土王の長男で次代王の長寿王が414年に建立したものだが、その碑文によると391年に倭が海を渡ってやって来て、百済と新羅、それから判読不明の□□・・・これは、おそらく伽耶または加羅であろうと推測できるが・・・を、襲って、臣民とした。とあるのだが、この文は1900年代に日本軍が石碑に造作したという説があったが、日本軍侵略の前の明治十三年の最古の拓本と日本軍の拓本が完全に一致するので、石碑に造作されていないことが判明したんだ。だから、この碑の刻字は、ほとんど誤りのない歴史的真実を伝えていると考えても良さそうだ。また、歴史研究家で名高い古田武彦氏も、現地に行って、じかに石碑を調べたが造作の跡は見られなかったと言っている。600年代はじめに大和王朝は飛鳥のあちこちを、定まった整備された都もなく王家を動かしている有様なのに、倭は400年代の初めに、韓国に進入して、ほぼ韓国全域を支配したという記録が残されている。この矛盾の答えは何だろうか?その答えは、大和国は倭ではなかったと言うことではないだろうか?」
「つまりこうですね、200年後に、まだ都を展開できない大和王朝が、膨大な軍船と兵と財を使って、韓国全土を支配するような事ができっこないということですね」
「そういう事だね。大和朝廷が攻めるにはどうしたって無理がある。してみると日本書紀、神宮皇后の三韓征伐の記事は全くのウソという事になるね」
「そうですね。ここに私達は日本書紀のフィクションを始めて発見するわけですね」
「そうだよ。沙也香君は実に良いことを言うね。裁判をしたら勝てそうな論証じゃないか。今日は実にマティーニがうまいね」
「本当!おいしいです」
「普通我々は壮大な凌に驚かされて、古代の天皇が膨大な権力や軍力を持っていたと考えがちだが、百聞は一見にしかずで、都の規模から想定できる、朝廷の力はさほどのものではないね。大規模な古墳にあてがわれた天皇名は考古学的にきわめてずさんなもので、他の豪族のものでさえありえるんだからな」
田沼は、今日一日の見聞がもたらした結論の完璧さに勝利感を味わっていた。