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田沼 飛鳥への旅 四

 飛鳥寺からも観光案内図をたよりに、今度は、中大兄皇子が蘇我入鹿を誅殺した飛鳥板葺宮あすかいたぶきのみや跡地を目指して、水田の畦道を走った。のんびり走って10分、距離にして1キロに満たない距離を南に向かって、辿り着いた。そこには水田の中に、大石を敷き詰めた20㍍四方の跡地が拡がっていた。

 田沼は呟くように言った。「現在の研究では、高床式建物の下部だということだ。しかも、目の前にあるこの遺跡は、入鹿が誅殺された飛鳥板葺宮のものでなく、そののち、天武天皇が近江大津宮から遷都して飛鳥板葺の宮の跡地に浄御原宮を造ったらしい」

「そうなんですか。今現在も研究中ということなんですかね」

「そうだ。この頃の天皇は代ごとに宮を主として飛鳥を中心に移していたのだ。だから皇極天皇の板葺きの宮も天智天皇の時、近江大津に移された。・・・この遠方への都の移動は、おそらく飛鳥近在の反対勢力に備えるためだったのかと思うのだが、天智のあと天武の時、なんと飛鳥の板葺きの宮跡地の上に、浄御原を立てたと言うことだね。勘ぐれば。ある一定の悪意があったと言えるかもしれないな」

「そうなんですか。代ごとに宮を移すというのは随分不経済な事ですね」

「これはね、この頃までは天皇の王権が小さかった事を示していると僕は考えるんだ。天皇の力が増大すると、徐々に都がおおきくなっていくのだね。飛鳥浄御原の都が手狭になって、20年後にさっき眺めたここから5キロほどの大和三山を囲むあたりに藤原宮に遷都するのだ。藤原都は周囲5キロの碁盤目の道を完備した都だったらしい」

「なるほど」

「まあ、後の天皇の壮大な権力に比べれば、牧歌的な王様の時代だったというところかな。こうした遺跡から読み取れる軍力と韓国の古代史書である三国史記に見える『倭国』つまり大和の国の軍力には、明らかな大きな差があることを感じられはしないかな?この時代をさかのぼること約百年、継体天皇の時、天下分け目の戦い『筑紫国の磐井の反乱』が僕にはひどく気にかかることなのだ。これは、今日宿に戻ってから、検証してみたいことなんだ」

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