ヒロインをいじめ尽くす正妻に転生したことを思い出したのでスローライフ楽しみますわ~!
「今日は疲れたろう? 俺もだ。きみに負担を掛けたくないんだ」
「まあ、なんてお優しい」
……などと言い訳をして。
愛する夫、結婚式を挙げたばかりの夫エディが額にキスをしてくれ、自室に引き上げていく中。自分の寝室でわたくし、シャーロットは幸せな眠りにつきましたの。
そういう結婚初夜でした。
朝、目が覚めた瞬間思い出しました。
ああああああ!
私! わたくしじゃなくて私、メイドのメアリーをいじめ殺しかける正妻じゃん!? って。
作品タイトルは確か、『待ってください、ご主人様! 私はただのメイドです!~子猫ちゃんな愛されメイドは侯爵様の溺愛乙女☆~』。
おお、そうだった。電子書籍の読み放題で読んだんだった……。
「んあああ~~~~」
は、ハズレ引いたああああ~~~~。
さて。
メイドたちに朝のドレスを整えてもらいながら私は考える。
名前、シャーロット・リンジー。昨日が結婚式だった。結婚初夜に夫とはヤッてない。
四歳のときにお茶会で出会った幼馴染の夫、エディ・リンジーに執着している。
この世界は前述のとおり小説の世界で、どうやら私は転生したらしい……というか、なんでよりにもよってここに、シャーロットに。
この世界の主人公はメアリーという。姓もない、ただのメイドのメアリー。
リンジー侯爵家に仕える最下層のメイドで、主に上級使用人たちの洗濯や厩番の使う道具の手入れなど、つまりなんでも屋をする階級の娘である。貧乏な実家を助けるためメイド奉公に上がり、その純粋無垢な性格や可憐な容姿、けなげに働く姿を主人のエディ・リンジーに見初められ、愛人となる。
しかしエディには三か月後に嫁いでくる幼馴染のシャーロット、つまり私がいたのだった。
つまり、彼らが恋に落ちたのは三か月前。すでに手遅れである。
原作でメアリーの存在を嗅ぎ付けたシャーロット、つまり私はあらゆる手を使って嫌がらせをし、時にはメアリーの命を脅かすことさえする。メアリーはエディや周りの使用人たちの手を借りて危機を切り抜け、やがてシャーロットのしたことは夫のエディにもばれる。
しかし純真なるメアリーはシャーロットを許し、エディとシャーロットは離婚。メアリーは晴れて侯爵夫人となるのだった……!
というストーリー。
いやいややめてくださいよ。
私はため息をついた。
「奥様、コルセットがきつかったでしょうか?」
「いいえ。大丈夫よ、気にしないで。緊張しちゃって」
と誤魔化すと、上級メイドは華やかに微笑んだ。
「大丈夫でございますわ。着飾った奥様は誰よりお綺麗です」
「ふふ、ありがとう」
さすがリンジー侯爵家、使用人のお世辞スキルも高いわ。
ほんとに困った。廊下を朝食室へ歩きながら私は考える。
すでに夫エディとメアリーは出会っている。おそらく原作の筋書き通り恋に落ちているのだろう。『私』がメアリーの存在を知るのに一か月くらい猶予があるはずだが、そのあとは坂道を転がり落ちるように悪くなって、正妻の座から追い落とされるまで一年もない。
こ、困った。というのも、私の実家コナー家の財政は火の車だからだ。身分こそリンジー家と同じ侯爵位であるものの、実家と婚家の経済状況は月とスッポン。もちろん実家がスッポン側。
私の持参金だって雀の涙だが、それでもリンジー家側はいいと言ってくれた。もちろん愛情からではない。
我がコナー家の所有する運河と街道の使用権を引き換えに、私はリンジー家に嫁いできた。私がリンジー家に嫁ぐことで、コナー家に運河と街道の使用料が入ることが保証され、リンジー家はそれらの流通網を正式に利用できる。
私は生きた証明書なのだ。
そう――だからこそ原作のシャーロットはメアリーの存在に恐怖し、必死に追い落とそうとしたのだ。自分がリンジー侯爵夫人でなくなれば、実家ごと没落なんだもの。
ていうか。
「そんなに大事なメイドなら大事にどっかにしまっといてよね……」
と思うのだった。
朝食室につくと、エディはすでに窓辺に立って外を眺めていた。あ、このシーン覚えてる。
実は窓の外にはメアリーがいて、きゃあご主人様っ! と手を振っているのだった。エディはそれに手を振り返す。
そして私がやってきた物音を聞きつけ、ばっと振り返る。ヤベ、見られたかなと顔に書いてあるのでちょっと笑った。
「おはようございます、あなた。朝食をご一緒いたしますわ」
「あ、ああ。おはようシャーロット。体調はどうだい?」
「元気ですわ。ありがとうございます」
「う、うん。さあ食べようか」
というわけで、メイド長が誇らしげにスープチューリンを運んできて、朝食が始まった。
ぎくしゃくとしながらも新婚生活が始まったわけである。
メアリーは下級メイドに与えられた裏庭の小屋で寝起きしているが、原作の進み具合からすると今はエディとさらに山の方の湖のほとりで待ち合わせ、夜ごとににゃんにゃこにゃんしているはずだ。
私の身なりを整え、話し相手になってくれ、直接給仕してくれる上級メイドたちとは文字通り格が違う。……エディが惚れたくなるくらい性格が可愛いことは原作の通りなのだろう。
「はあ」
とため息をつき、正妻の仕事をこなしながら頭を抱える。
ちなみに今こなしているのは結婚式の招待客たちへの御礼状である。こういう細かい社交をおろそかにすると、次の社交シーズンでどこのパーティーにも呼ばれなくなってしまう。
ううーん、どうすればいいかなあ。どうすればエディの心を取り戻せるだろう?
正直言って、大事な幼馴染だ。メイドに、それも最下級のメイドに傾倒してるなんて他の貴族に知られたら、末代までの恥である。リンジー家の商売にも差し障る。
なんとか穏便に、別れてもらえないと……私も正妻の座から蹴落とされてしまう。冬になる前に。
窓の外には春の景色が広がっている。ここは異世界だから、どっからどう見ても桜にしか見えない木々が正門から玄関までに規則正しく植えられて、ピンク色の鮮やかな花吹雪が前庭を覆う。
「綺麗ね……」
こんなに綺麗なのに、私の胸中は荒れ狂っていた。うう、またあの貧乏実家に戻りたくないよー。リンジー家はうちの三倍近くある敷地を持っている。ここの正妻でいたいよう。
「こんなに綺麗なお家でございますが、それを乱す者がいるんでございますよ、奥様。ご存知でしたか?」
いるの忘れてた。私はメイド長を振り返った。初老の彼女はわざとらしく花瓶に生けた花をいじくっていた。
「なあに、それ?」
まあ話を振られたからには仕方ない。応じてやると、すすすとメイド長は寄ってきて、私の耳元に悪意を吹き込む。
「ご主人様には愛人が……汚らしい最下級のメイド……若いだけが取り柄の……」
私はぽかんと彼女を見つめた。そ、そうか。原作でもシャーロットにメアリーのことを教えたのはメイド長だったのか。
その視線をどう思ったか、ふふん、とメイド長は肩をすくめ、優雅にお辞儀する。
「あとはどうすべきか……あたくしどもは奥様のご決定に従いますわ」
そして立ち去って行った。
ふうむ。
私はしばらく、考え込む。
さっきまでの私は……しまった、メアリーをなんとかしないと原作通りここから追い出されるものだとばかり思い込んでいた。なんてこった。
そんなことなかったのだ、と今更気づいた。私は大バカ者だ。
何も原作通りになる必要なんてない。メイド長にいいように操られてメアリーをいじめる必要なんてない。ましてや暗殺者を雇って殺そうとするだなんて。
そんなことしなくても――私がメアリーをいじめなければいいのだ!
「そっか。そうよね」
私は思わずガッツポーズした。
「何もしなければいいのよ!」
普通の奥さんたちと同じように。浮気不倫は見ないふり、見ないふり。何もなかった、何もない。そういう前提で夫婦生活を進めていけばいい。
このままエディが私を抱かなければ確かに跡取りの子供の問題はあるが、それだってメアリーが産んでくれるかもしれないんだし。なんなら親戚筋から養子を取ってもいい。
すでに神の前での結婚式はすんだ。誓約は交わされた。
肉体関係がない以上、白い結婚を申し渡される可能性はあるが――ていうか原作のシャーロットはそれで追い出されたんだったが、それだってどうにかなる。エディは初夜の立会人を立てなかったから。
「ようし、なんとかしよう!」
私は拳を天井に突き上げる。
ぜったいぜったいここに居座ってやるぞー! こんな金持ちの家の正妻の座、手放すもんか!
それ以降、私とエディの日々は非常に穏やかになった。朝、仕事に行く彼を見送り、夕方帰ってくるのを出迎える。いずれもお化粧を直し、着替えて万全の体勢でそうする。
朝と夜の食事は一緒にする。それから夜になって屋敷が寝静まると、エディはいそいそと起き上がりメアリーとの逢瀬に向かう。
そういう日々。
私はエディに会うたびに目を輝かせ、両手を広げて彼を歓迎する。
「あら、あなた! おかえりなさい!」
「今日はお疲れでしたの?」
「実家から果物が届いていますわ、おあがりになる?」
どんな小さなパーティーでも夫婦同伴がこの国の鉄則である。彼がこいと言ったどんな集まりにも楽し気に顔を見せ、そこで誰に何を言われても決して微笑みを絶やさなかった。人前で夫をこき下ろすことは絶対にせず、初夜がまだなことに対する恨み言など一言も吐かなかった。
「明日の夕食会には、こちらのカフスボタンの方がお似合いですわよ」
「こっちの青いほう?」
「ええ。あなたによくお似合い。――ああ、目が青いからね」
とかなんとか、適当な会話で持ち上げることも欠かさない。
家庭内の掃除や領地の管理はしっかりやって、金をちょろまかすことも一度もせず、使用人がミスすれば叱り気がきけば褒めた。
そのうち、夫の目から怯えと後ろめたさが消えた。つまり、『俺たちの真実の愛を邪魔するかもしれない怖い妻シャーロット』はこの世におらず、『愛すべき純粋な、でもメアリーほどじゃないほどほどの妻シャーロット』が家にいることに彼が慣れたのである。
舐められたもんだった。
とはいえ、この生活は私にとって僥倖でもあった。
だって実家だと使用人も少なかったから、お茶を淹れるのさえ自分でやらないといけないこともあったのだし。ここでは何もかも使用人がやってくれる。
お店まで行かなくてもリンジー家まで商人が来てくれ、ほしいと言えば品物を置いていってくれる。支払いはツケである。何をどう買っても、エディは何も言わない。
……実家じゃこんないい生活、できなかった!
もちろん、メイド長をはじめ歴の長いメイドたちには小声で注意されることもあった。
「あの小娘、街をご主人様と一緒に歩いていたそうですよ……」
「リンジー家のお店に入ったのですって。下級メイドごときが」
「奥様、きつうく言ってやらないといけませんわよ」
「奥様、どうして黙っておられるの?」
……いや、わかるけどさあ。奥様の体面を気遣ってくれるの半分、新入りの下級メイドごときが長年仕えた自分たちには手に入れられない幸運を手に入れたことへのやっかみ半分、てとこだろうとは思うけど。
「まあ、あんな身分の低い子相手に喧嘩するのも、ね」
と言ってある。彼女たちは納得していない様子であるが、だって実際喧嘩したくないんだもん。疲れるしめんどくさい。それに――万一原作通りに追い出されたらマジで困る。行く当てがないんだもの。
私は毎朝五時に起き、気軽な恰好で中庭を散歩する。庭師が常に手入れしてくれている、咲き誇る薔薇や花壇を見物する。
それから朝のドレスに着替えて夫と朝食。彼を見送ると昼の間は帳簿を見たり、手紙を書いたり、だらだらしたり、お茶を飲んだり友人を招いたり昼寝したりする。
夕方も近くなってくると夜のドレスに着替え、エディを出迎える。一緒に食事をすれば彼はそそくさと自室に引き上げ、深夜、窓から垂らしたカーテンをつたってメアリーの元へ出かけていく。
……ううーん、ご苦労なことである。よく体力がもつなあ。
メイドたちに言われるまでもなく、私がメアリーの存在に気づいていることを彼は気づいているのだろうか?
なんにせよ、私は何も言わない。案外、夫婦ってこんなもんじゃないだろうかと思う。
結婚して数か月目の朝。
「おはよう、シャーロット」
「おはようございます、あなた」
朝食室に入ってきたエディは、いつものように端然としている。まったくもって、氷の侯爵様だっけ? らしい。
最近の彼は以前ほど私を避けなくなり、会話も増えてきた。といっても、業務連絡みたいなものばかりだが。
席に着きながら彼は言った。
「今日は領地の北側へ行く」
「まあ。ではお夕飯もお外で?」
「ああ。戻るのは夜になると思うから、先に寝ていなさい」
「かしこまりましたわ。お気をつけて」
「……シャーロット」
「はい」
メイド長がスープチュリーンを持ってきて、私たちはポタージュにありついた。ふわふわの白パンにたっぷりのバター。このあとはサラダと卵料理が続くのだ。ああ、今日はなんだろう、オムレツかな。ゆで卵かな。楽しみだ。
実家ではこんな贅沢な朝食、ついぞなかった。私は幸せ者だ。
ほくほくしていると、メイド長が立ち去ったあとエディがぽつりと零した。
「最近、楽しそうだな」
「はい? ええ。楽しく過ごさせていただいております」
「いや、その……結婚してから、ずっと、楽しそうだ」
「お気に障りましたか」
彼は首を横に振った。
「どうしてそんなに楽し気にしていられる? 君はもっと、僕に怒っていると思っていたが」
ははあなるほど。私は頷いた。
確かに原作のシャーロットなら、というか普通の貴婦人なら常識に則りこのあたりでブチギレる。
『どうして私を抱いてくださらないの!』
『あのメイドと何をしているの!』
『私よりあの女が大事なの!?』
『侯爵家から嫁いできた貴族の私より!?』
まあ、そりゃそうだ。言うべきセリフがぱっと脳裏に出てくるくらい、そうだ。
私はバターロールをお皿に置いた。
「怒っていませんもの」
「本当に?」
「本当ですわ」
「でもな……」
エディは言葉を濁し、やがて口を噤んだ。
その端正な顔を眺めながら、私は思う。
もしかすると、この人って……ものすごく気が弱いのでは?
原作では「冷酷な侯爵」「一途な恋に生きる貴公子」などと書かれていたし、商売敵にはそりゃひどいことをするらしいと社交界でももっぱらの噂だ。さる夜に参加したパーティーでうっかり彼の機嫌を損ねた子爵が舌戦にやり込められ意気消沈していたのも記憶に新しい。
でも案外、内面は普通の青年なのかもしれない。かわいそうでかわいいメアリーを愛するくらいには。
幼馴染だから私にも気を遣っているし、たぶんだけど私を傷つけたくない、悪人になりたくないという罪悪感もあるようだ。
そしてそれらを上回るくらいに、メアリーのことを愛しているんだろう。
朝食が終わると、いつもならすぐ席を立つはずのエディが何やらもたもたしているので身構える。
彼は座ったまま私を見据えた。
「シャーロット、君に告げなければならないことがある」
「はい」
来たな。
私は居住まいを正した。
でも覚えている限りだが原作とは展開が違う。このセリフを言うのは本来ならシャーロットだ。『あなた、あなたに告げなければならないことがあります』。そしてシャーロットは、彼らの逢引の場に残されていたメアリーのリボンを差し出すのだ。
このへんから物語は急展開である。とはいえエディが言い出したのは、思ったより弱々しい言葉だった。
彼は苦しそうに眉を寄せ、胸元をくつろげながら言う。
「君との結婚を俺は後悔している」
ずっこけるかと思った。
メアリーの名前を出すでもなく、愛する女性がいる、あるいは愛人がいると宣言するでもなく、だから未来永劫お前なんて抱かないからなっ、とかかっこつけて怒鳴るでもなく。
よりにもよって悪いのは結婚かい。
せめて自分が悪いと認めろって。
何年も前から、シャーロットがリンジー家に嫁いでくるのは決定事項だった。なのにこいつは立場の弱いメアリーに手を出し、その一生を狂わせたのである。
「左様でございますか。至りませんで、お恥ずかしゅうございます」
「……それだけか?」
「はい?」
「怒らないのか?」
「……怒ってほしいのですか?」
エディは黙って食後の紅茶を啜る。
いや、だからさあ。怒りさえシャーロット任せなんかーい。
自分の感情について、自分が夜な夜な屋敷を抜け出して下級メイドあっはんうっふんしていることについて、せめて自分の言葉で語ってみせるくらいさあ。
……まあいっか。
私は呆れ果てた。で、素のままいくことにした。
「あなたがわたくしを愛していないことは、なんとなく存じていますもの。他の女性がいることも」
「……シャーロット」
「ですから、わたくしもあなたに無理をしていただくつもりはありませんわ。実家への支援や契約については感謝しております。それで充分ですわ」
エディはぽかんとしていた。そうすると、子供の頃に似ていた。
私は微笑んだ。
「私、リンジー家が好きですわ。この家を守るお役目を与えていただけたこと、光栄に思います」
「本当にそう思っているのか?」
「ええ。何も夫婦だからといって、同じ気持ちである必要はありませんわ。仕事を放り出すことはありませんからご安心なさってね」
にっこりと本心を告げる私に、エディは半信半疑というか、疑わしげである。
これでエディがメアリーを正妻にしてやる未来は希望むなしく潰えたわけだ。
この家が潰れず、追い出されて路頭に迷うことなく、毎日おいしいご飯を食べて平穏に暮らせるなら、私はそれでいい。
恋愛は前世でも面倒だった。ましてや原作のヒロインと恋愛バトルなんて絶対にごめんだ。
「ですからあなたはどうぞ、お好きになさって?」
エディは憤怒の表情で固まった。なんでだよ。
「君は……君は、そんな不純な女性だったのか。――とは大違いだっ」
と言いながら席を蹴って立つ。おお、すごい。
他人にはうかがい知れない不可思議な計算の元、心の中でなんとかシャーロットを悪者にすることに成功したらしい。
そうまでして自分のしでかした正妻への不義理から目を背けたいほど、メアリーとの恋愛は幸福なのか。そうまでして守りたいほど。
「あ、そうそう旦那様」
朝食室を出ていく背中へ、私は声を投げかける。一応、立ち止まって肩越しに振り返る程度には彼にも常識があるらしい。
「くれぐれもあなたの問題に私を巻き込まないでくださいませね。私もあなたを巻き込みませんから」
エディは頭を振って、軽蔑の視線を私に投げかける。
「君は変わったな」
「そうかしら?」
「以前の君なら、そんなことは絶対に言わなかった。あんなにも俺の機嫌を取り、気に入られようと必死になっていたのは――芝居だったんだな。リンジー家に入り込むための。そして今、居座れると分かって居丈高になっている。いいか、一度しか言わないからよく聞け。俺は君のような邪悪な女性に心開くことは絶対にないからな!」
「へえ」
私はにっこり笑って手を振る。
「それじゃ、いってらっしゃいませ」
バタンと扉が閉まった。
……そういえばシャーロットこと私ってば、お見合いのときからエディに気に入られるように振る舞っていたっけ。まああとがなかったもんねえ、実家の没落、秒読みだったし。
つまるところエディは私のことをひ弱でうじうじしていて体力がなく、ありとあらゆる部分が弱くて甘やかされて育てられた弱い女だと思ってて、たぶんだがそういうところを守ってあげたいとかではなくむしろ見下していたのだ、最初から。
で、私はエディのことを冷酷な男だと思っている。もちろんいい意味じゃないし、はあーん氷の侯爵サマ……(はあと)みたいな憧れでは断じてない。
あいつはつまり、感受性と思いやりがなくデリカシーがなく、生まれつき丈夫で体力があり頭がいい――ことを誇りとしており、それ以外の何もかもが備わっていない人間なのだ。
お互い相手のことをうるせえなこいつ俺/私のことなんて見下してるくせによ、と思っているので本気と書いてマジと読むで気が合わない。
はあ。しょうもな。
「はーああ」
私はため息をついて頬杖をついた。朝食室には光が満ち溢れ、綺麗だった。
それから何かが変わったかというと、何も変わらない。そのうち私はすっかりこの暮らしに慣れてしまった。
ここでの暮らしに不満なんて一つもない。貴婦人として社交界に出ることは楽しい仕事で、それ以外の屋敷の管理やお礼状書きはめんどくさい仕事だが、とはいえやってやれないことはない。それ以外の時間は全部自由だ。
エディが出かけるときと帰ってくるときに化粧を直し、着替え、あーんおかえりなさあいあなたー、をやって、それで一番面倒な仕事はおしまい。ちょろいもんである。
あまりにも快適だった。うるさい姑はやっと引退できた舅と旅行だし、エディは相変わらずメアリーに首ったけ。つまりお役目といえば上記あれこれをやっておけばそれでいい。
「お庭で薔薇を育てたいわ」
「今日のお茶はハーブにしましょう」
「午後は庭で読書をしましょう」
「今月は新しい帽子を二つ注文しようかしら」
などと、完全に侯爵夫人生活を満喫していた。
朝は鳥の声で目を覚まし、朝のドレスで降り注ぐ日差しに浮かぶ庭師が手入れした薔薇園を散歩する。新品の帽子にレースのハンカチ、気まぐれにメイドにお古のドレスをあげれば感謝され、使用人の給料を遅れさせたことは一度もないから他の者たちにもまあまあ受け入れられている。
食事は勝手に出てくるし、服は着せてもらえる。
本を読みたければ書斎に行けばいいし、退屈なら友人を呼べばいい。
いらないものは人にあげて、いるものは新品を買う。なんて最高!
しかも私が何をしていても、
「奥様、素敵ですわ」
「奥様、本日は一段とお美しく」
「奥様、お紅茶のおかわりはいかがです?」
と誰かが構ってくれる。
いやー、転生してみるもんだなあ!
寝椅子に寝っ転がってクッキーを齧りながら、流行の恋愛小説を読みふける。今度お茶会に行ったらこれの話するんだあー、ふんふん。
……ん?
影が差してきたので私は起き上がる。中庭である。噴水と煉瓦の花壇と蔓薔薇を這わせる棚があり、木々の木陰に出した寝椅子に寝そべりながら見上げるメアリーは挿絵のまんまの美少女で――ひどく興奮して見えた。
「まあ、誰?」
お仕着せでうちのメイドだということは分かる。メアリーだということもわかる。しかしながら栗色のボブカットを振り乱してフーッフーッと肩で息をする、その表情は見たことがない。
「どうして……ッ、どうして、あんたはエディを悲しませるのよおおおおおッ!」
こっわ。
絶叫である。
私は黙って小机の上の鈴を鳴らす。すぐに使用人たちが駆けつけてくるものの、その短い間にメアリーはもう、めちゃくちゃだった。
「あんたがエディを馬鹿にするからあの人はいつも辛くて……!」
「あたしたちが愛し合ってるのがそんなに悔しいの!?」
「無理やり嫁いできたくせに、愛されるとでも思ってたの?」
「抱いてもらえないのがそんなに……っ。でもダメよ。あたしたちは愛し合ってるの。あたしこそがエディの愛なのよ。そこに割り込んで、恥ずかしいとは思わないのっ」
まあこのへんまでは置いておいて。
「あたし、あたし、エディのためあんたと戦う……!」
と言ってファイティングポーズを取ったときは、本気で何を見せられているのかと思った。
エディが私のことをどう話していたのかは知らないが、メアリーの中ではいつの間にか、私はエディを苦しめる悪女になっていたらしい。
原作でも激昂すると威勢よく怒鳴り始め説教するキャラクターではあったんだけど、直に見る羽目になるとは思わなかった。
ようやく駆けつけた侍従たちが複数人束になってメアリーを取り囲み、地面に引き倒してボコボコに殴って蹴り始めた。
「およし、ほどほどにね」
と言ってとりあえず王国警備兵に連絡。リンジー家の私兵ではなく国王陛下直々の駐在部隊なので、少なくともエディの息はかかっていない。
……家の中で内密にすませた方がよかったんじゃないかと若干、思わないでもないが。
たぶん今日はエディが遅くまで帰ってこないことを知った上での決行だったのだろうし、まあメアリーにはメアリーなりの理屈があったのだろう。それを解明するのは私ではなく王国兵の役目である。
さて。夫が戻ってきたのは翌日のことだった。朝に出迎えたときには何もかも知っているようだった。げっそりやつれた顔をしていた。
彼は私を私室に呼び出して立たせたまま、静かに唸った。
「メアリーが、メアリーが……! おのれ、俺たちを引き裂こうとしてもそうはいかないぞ!」
メイドたちに着替えさせてもらい、朝食代わりのパンにサラミを乗せたのを口に押し込みながらなのでいまいち迫力がない。
「はあ」
「俺はこれから総力を挙げて彼女を救う! お前などに俺たちの真実の愛が壊せると思うな!」
「左様で」
ずびしっ。と私を指差し、脅かすように拳を握って振りかぶる真似をしつつ、屋敷を出て行った。……本当に体力ある人だなあ。
どうやら私の巻き込まないでくれ、という願いさえないがしろにされるようだ。まあしょうがないか。押しかけ女房なのはほぼ真実だし。
私の斜め後ろに控えていたメイド長がぽつりと呟いた。
「坊ちゃまは……エディ様は、あんな方ではなかったのです。お小さい頃はほんとに聡明で、お優しくて……」
私は頷いた。
「私の父も叔父もそうだったそうよ。でも大人になってからは失敗続きで、没落を招いたわ。みんな、そういうものなんだと思うわ」
我々は目を見かわし、深い溜息をついた。
さて、エディはなんだかんだ賄賂やらコネやらを使い果たす勢いでメアリーの釈放に奔走した。とはいえ、貴族家に仕える下級メイドが本来立ち入ってはならない侯爵夫人の私的な中庭に入り込んだ上、暴行に及びかけた……という事件はあまりにセンセーショナルで、いくらリンジー家の当主といえど権力にも限界がある。
結局、エディはメアリーの鞭打ちの罰を防げなかったようだ。傷ついた彼女と抱き合いながら馬車に乗り、今はメアリーの故郷の村外れに家を建ててそっちに住んでいるのだとか。がんばれよ。
たまに重要なパーティーがあると、私がいるリンジー家の本宅にエディは帰ってくる。私はそれを満面の笑みで出迎える。新しくお化粧をして。
「おかえりなさいませ、あなた……」
「ふんっ。いくら媚を売っても無駄だ。俺がお前を愛することなどない」
そういうことじゃないんだけどなあ。
私は黙ったまま、ただ微笑むのだった。
パーティーでは私は朗らかに微笑み、友人たちも同じだ。夫に恥をかかせないよう、半歩下がって夫を立て、あまりに下品なゴシップには気づかないふりをし、誰かが困っていたら相談に乗り、音を立てず控えめに笑い声を立てる。
それからお礼状をたくさん書いて、数日後のお茶会で集まる。先日のパーティーでのあれやこれやについて、そこでようやく、本当のゴシップが始まる。
私は人前で一度もエディをこき下ろしたことはない。彼の前に出るときは常に綺麗な恰好でいるし、屋敷の手入れには隅々まで気を配っている。
この程度の努力でこの生活が手に入るのなら安いものだ。望めばなんでも手に入る暮らし。お買い物、使用人、薔薇園、新しいドレスにティアラに指輪!
というわけで私は大部分、私の人生に満足である。
いずれメアリーが産んだ子を夫が家に入れようとしてひと悶着起こることは目に見えているので、常に社交と親戚づきあいは欠かさない。私の献身や仕事ぶりをよく知ってもらい、いざというとき味方してもらうのだ。
世界一周旅行と銘打って風光明媚な観光地を巡る舅姑に、私が逐一状況を手紙で報告していることに、エディは気づいているのだろうか?
気づいてもなお、血の繋がった親であれば味方してくれると思い込んでいるのだろうか?
あるいは、自分がこよなく愛するメアリーのことならきっと彼らも気に入るだろうと思って?
残念ながら世の中というのはそんな簡単なものじゃない。社交には顔を出すだけで、相手をやり込める商談にばかりかまけている彼にはわからないことかもしれないが……。
ともあれ、私が知っていた幼馴染の男の子は死んだ。今いるあれは別人。最近ようやく、メイド長もメイドたちもそのことがわかりかけてきたようだ。
彼に会わなければならないとき、私は常に身なりに気を配る。微笑む。彼にされたこと、その過去の全てを許したかのように。
そういう生存戦略を取ると自分で自分に約束した。
だってどうしても、この生活が欲しかったから!




