第15話
怜視点――
このダンジョン演習の責任者である私、神楽木怜は静かに息を整え、開始地点で待機していた。
ふいに肌を刺すような鋭い気配が近づいてくる。
霊力の気配――それも非常に濃密なものだ。
「……呪祓師」
思わず低く呟いた。
彼らはかつて退魔師の家系だった者の末裔。
そして三百年前に繁栄していた霊術を元に、独自に編み出した呪術という禁忌の力に手を染めた者達のことだ。
「久々に降りてきてみましたが……こんな下位層で、世にも珍しい退魔師様に出会えるなんて、僕はなんて幸運なんでしょ〜う」
闇の中から男がゆっくりと姿を現した。
纏った漆黒の装束衣が、微かな揺らぎを伴って不気味に揺れる。
禍々しい霊力に似た別の何か。
「……まさか本当に実在していたとはね」
ハンターの中には、私のような隠れ退魔師という者が存在する。
今回、ダンジョン演習に参加している白影京士のように少し纏えるレベルではなく、実用的に霊術を用いることができる本物の退魔師だ。
言うまでもなく三百年前に存在していた、原初の退魔師様には全く及ばない程度のものだけれど。
そんな私達の中で噂になっていたのが――呪祓師。
なんでもハンター適性を持たずしてダンジョン上層に住んでおり、ハンター協会を憎しみを抱いている者達が存在しているのだとか。
「……なんでこんなところに貴方達がいるの?」
たしかハンター適性のない彼ら呪祓師は、ハンター協会から身を隠すため、到達が困難だと言われている五十五層より上の階に身を隠していると聞いたことがある。
それが本当だとしたら――こんな離れた階層まで、何をしに?
「あぁそれは、ですね……」
男はニヤリと笑いながら指を鳴らす。
直後、彼の周囲に複雑な陣が展開され、黒いエネルギーが渦巻き始めた。
「こいつですよ。【血契の儀】」
そしてそこに現れたのは、見たこともない人型のモンスターだった。
細身でありながら異様に長い手足、全身を覆う黒い鋼鉄の鎧、白い仮面に黒いフードを被り、その背に纏ったマントが風もないのに揺らめいている。
背には長大な長刀。黒色の力を帯びた煙がその身体から溢れ、周囲の空気を重苦しく染めていた。
まるで死、そのものを具現化したような存在感。
「……召喚術!?」
これは退魔師が使う術の一つ。
現代退魔師である私にできるのは、精々が一度きりの使い捨て契約程度。
だが、彼ら呪祓師は違う。
呪術を用いた召喚術。
何らかの代償を払い、永続的に強制使役するというもの。
それが彼らの持つ強さであり、歪みそのものだ。
「……なに、それ」
今までに遭遇したことのない霊力の総量だった。こんなものは五十層どころか、もっと上の階層にも存在するかどうか……。
怖い――ただその感情だけが、私の胸の内を冷たく支配する。
「ふふっ、怖いですか? なぜだがこの階層に向かいたがるもんでして。付いてきたというわけです」
「……こんな化け物を使役するだなんて、どれだけの代償を支払ったのよ」
代償は呪術に必須のものだ。力を得るにはそれ相応の犠牲が必要となる。
ましてやこんな強大な存在を操るには、並大抵では済まないはず。
「それがいらなかったんですよ、その代償が。不思議なもんです。これこそ幸運と言うべきか」
「え、どういうこと……」
「ま、ラッキーだったってことです!さぁ試運転、あの女を殺しなさい!」
しかし、その化け物は一切として動かない。
「何をしてるのですか! 言うことを聞きなさい!」
モンスターはまるで指示を聞いていないかのように、その場でじっと立ち尽くし、周囲を見渡している。まるで何かを探しているような。
どうやら完全な使役ができていないみたいね。
……だったらなぜ、私達を襲わない?
理由は分からない。
だが少なくとも今、このモンスターには戦闘の意思がないのはたしか。
それだけは救いだ。
こんな化け物モンスターに襲われでもしたら、私如きじゃ数秒も持たずに殺されてしまう。
「ま、せっかくです。同じ退魔師の末裔同士、こんなところで出会えたのですから、ぜひ一戦、交えましょうか!」
呪祓師が力を込め始める。
どうやら私を逃がす気はらしい。
「【氷華】」
私は即座に氷技を放つ。
男の足元で無数に咲く氷製の花。
時間差で順に爆ぜていく。
この小爆発に触れたところは、瞬く間に凍結させる。
ちょっとした足止めの技である。
「僕達にハンターのスキルが効かないって、知らなかったんですかぁ〜!?」
男が挑発気味に叫ぶと同時に、その氷は霧散し完全に消え去ってしまった。
「……魔力系スキルの無効化?」
あれも呪術の一つだとすれば、霊力を使えない通常のハンターじゃ、彼ら呪祓師には全く勝ち目がない。
「ガハッ!」
男の口から、突然鮮血が吹き出る。
あれがもしかして何らかの代償?
体の内部でも損傷させたのだろうか。
「さぁ、楽しみましょ〜う」
腕で口元の血を拭きながら、男は満足げに笑っていた。
ここにはハンター学校の子達もいる。
彼らを守るたためにも、戦うしか選択肢はなさそうね。
「【呪哭の禍砲】」
男は吐瀉した血を右掌に塗りたくり、こちらへ向ける。
そこへ集まるは禍々しい闇のエネルギー。
大きさこそ男の拳一つ分くらいだが、中の霊力は凄まじい密度。
おそらくBランク程度のモンスターであれば容易に消し飛んでしまうだろう。
「あんなの放ったら……」
この辺一帯のさまなど、想像もしたくない。
なんとかせねばと、私は【インベントリ】から白のお札を取り出した。
これを媒体に霊術を発動させる!
「【簡易霊術・結界の符】」
目の前に浮かぶ札が、私の周りに見えない壁を張り巡らす。
「死ねぇぇぇぇっ!」
そしてついに放たれたその闇は、通る地面を抉りながら迫り来る。
結界越しにも感じとれるその莫大な霊力量に、私は情けなくも足がすくんでしまう。
バッ――
禍砲と結界の衝突。
わずかな均衡の末、私はサイドへ飛び退く。
「破られるっ!」
その瞬間、闇が私の霊術を貫いた。
ほんの少しでも保てただけで幸いだ。
避ける時間ができたんだから。
「ちっ、外れましたか」
男は腰に備えていた短刀を自身の太ももに突き刺した。
「んっ! もう一発、呪哭の……」
再び掌を血で染めた呪祓師は、同じ技を放とうとするが――
「【白煙氷】」
地面へ撃った氷の粉塵が、煙になって周囲数メートルを包む。
「くそっ、みえませんね!」
ちょっとした目眩し。
これで奴はさっきの技を撃ってこられないはず。
「どこだっ! 出てきなさい、女退魔師!」
さらに広がってく白煙は、男の周囲までも包んでいく。
さぁ、探しなさい。
私が今、どこにいるのかを。
今のうちに私は、さっきもインベントリから取り出した白い札――『霊符』を取り出した。
この札を媒介することで、使う技の威力は何倍にも膨れ上がる。
それがこの現代において、限りなく薄まった霊力を利用して戦う、私たち退魔師の戦い方。
「【簡易霊術・霊撃の符】」
完全に奴の死角を捉えた。
私は霊符を貼った掌に霊エネルギーを溜め、それを撃つ。
かつての退魔師達は、それを【霊衝】と呼んでいたらしい。
霊術の基礎にして、極めれば最強の術。
本来の威力とは程遠いかもしれないが、直撃すればタダでは済まないはず。
バンッ――
術の衝突音。
よし、見事命中したようね。
これで倒せていたらいいのだけれど。
それからすぐ白煙が晴れていく。
そして徐々に見えてきた男の姿。
しかしその様子は、一切変わり映えしなかった。
それどころか余裕の笑みすら浮かべている。
「……避けられた?」
いや、確実に当たってはいた。
だけど奴の傷は見たところ呪術の代償のみ。
つまり私の術は効いていない。
どうして――
「呪祓師ってのは、常に霊力が体を蝕んでるんです。……だからそんなものが当たったところで、大して痛くないんですよぉぉ! アハハハハハッ!」
「……そんなっ!?」
魔力だけじゃなく、霊力まで。
じゃあ呪祓師相手に何が効くっていうの……?
「そろそろ僕の体もボロボロでしてね。ここいらで決着つけましょうか。【血契の儀】」
それは初めに化け物を召喚した術だった。
再び光る陣からは別の何かが現れる。
人、男、黒装束。
まるで呪祓師の彼と瓜二つの格好だが、もちろん別人。
背丈も違うし、容貌も違う。
「……え、」
思わず声を漏らす。
そこに現れた男、眼球がくり抜かれていたからだ。
よく見れば、顔は青白く開いた口の中は真っ暗な空洞。
それは人のようで人ではない。
何か別の存在のようだった。
まさに――屍人。
私の直感がそう告げていた。
「コイツァ、昔の仲間。僕と同じ呪祓師だったんですよ」
「……死んだ人と契約したって言うの?」
予想が当たってしまった。
やはり彼はすでに死した人。
「ヴァァァァァ――」
召喚された彼の呻き声。
頭を抱え、体をその場で大きく振り回す。
苦しみ、悶え――まるで戦うことを拒むかのように。
いや、きっとそうなんだ。
彼は呪術による束縛で無理矢理戦わされている。
その証拠に彼は今ゆっくりと後ずさり、この場から去ろうとしている。
「一郎! 戦いなさい!」
呪術により結ばれた主従は絶対だと、
そう言わんばかりの強制力で、一郎とやらは戦闘態勢に入らされた。
「ヴァヴヴヴヴヴ――」
そしてかざした手の中には、溜められる闇のエネルギー。
唸り声と共に一瞬にして放たれる。
迫るそれは、さっき男が放った黒いエネルギーとほぼ同等。
「……うっ!」
あまりの発動の速さに、私はわずかに初動が遅れてしまう。
だけどなんとか飛び退くことができた。
胸部からの着地。
急いで起きあがろうとするが、なぜか踏ん張れずにバランスを崩す。
「なんで……痛ッ……!?」
遅れて降りかかる下半身への激痛と失った右大腿の断端を見て、ようやく今の現状を把握させられた。
「はっ、これで逃げられませんね!」
座り込んだままの私を見て、笑い声をあげる呪祓師の男。
失った右脚とその断端から地面に流れる多量の鮮血。
召喚された一郎の手に再び溜められた闇のエネルギー。
この現状を全て把握した時、
何かがポッキリ折れた音がした。
足元から冷たい絶望が這い上がる。
頭の中は真っ白で、声も出ない。
それからすぐ頭に浮かんだのは、
――ここからどう逃げるか。
そう、私の中でポッキリ折れたのは戦う意思。
私のこれまでの経験が、私の本能が、即座に判断したのだ。
それが自分の生命がこの先も生き続けられる、唯一の方法なのだと。
だけど私には、そのための足がもうない。
片方だけでどう逃げろと言うのだ。
「……終わりね」
次は逃げる意思が折れた。
そして悟った。
自分の命の終焉に。
目の前の貯溜していくエネルギーを目に映しながら、
最後に思い浮かべたのは、一人の生徒のことだった。
空木廻――
選抜試験の時、彼から感じたのは確実に霊力だった。
……結局何者か、分からなかったわね。
きっと――それが私にとって、最後の心残り。
残念だけど、この辺りが幕引き。
そして今まさにその霊力が放たれようとした時だった。
「ヴァヴヴヴヴヴ――」
何かが彼に命中した。
呻きながら、大きく吹き飛ばされた。
「何者ですかっ!?」
呪祓師の男が、私を見て問いかけてくる。
いや……私じゃない、視線はもっと後ろの方だ。
私は体を捻り、目を向ける。
「ここに来た瞬間、なんだか力が溢れてきたんだが……」
その声を聞いて、初めは幻覚かと疑った。
だってそこにいたのは、私が最後に思い描いた人間だったから。
「……空木、廻?」
そしてなぜか初めに現れた白仮面の化け物が、彼の前で跪いており、何やら言葉を交わしている。
「先生、そこで休んでてください。……あとは俺が片付けます」
ハンター学校一年、空木廻。
彼はこんな状況にも関わらず、教員である私の姿を一瞥し、柔らかな笑みを浮かべるのだった。




