第11話
湿り気を含んだ風が肌を撫でる。
白影京士が勝手に先行して、その後を追ったあたしが辿り着いたのは──滑らかな岩肌の絶壁だった。
二十五階層の湿地帯をかなり進んだ先にそびえ立つその崖は、おそらく高さ十数メートルのビル相当。
並大抵じゃ登れそうにない高さである。
「……この上、ですわね」
詩音がそう呟く。
今のところ、あたしにはアストラカリスの気配なんて感じられない。
だけど魔力感知に優れている彼女が言うのだから、きっと間違いないんだろう。
「お前らはここにいろ」
京士が短くそう告げると、両腕に鋼鉄の竜鱗を覆った。
そして手の指をまっすぐ伸ばし、貫手の形へ――そのまま岩肌に突き刺しながら上へ上へと登っていく。
「わ、わっ……すご、いですわ……!」
口をぽかんと開ける詩音。
あたしたちも、どうにか追いつかなきゃいけないわけだけど。
「……あ、あの、澪さん」
「え、どうしたの?」
突然の暗いトーン。
ここまでの詩音さんからは考えられない雰囲気だ。
「あの御方……京士様についてなんですけれど……」
「え、あぁ白影京士のこと?」
お嬢様口調の彼女だけれど、『様』なんて敬称には違和感がある。
あたしのことは『さん』なわけだし。
「あ、いえ……なんでも、ありません」
何かを言い淀み、そのまま彼女は口を閉ざす。
「詩音さん、あなたも彼に何かをされたの?」
すると詩音は一瞬だけ、言葉にできない何かを飲み込むように一瞬だけ目を伏せた。
「い、いえ……そういうわけでは……じゃなくて、澪さん! 早く行かなきゃいけませんわ!」
違和感のある話題転換。
きっと彼女も何かを抱えてるに違いない。
だけど、早く行かなくちゃいけないのもたしか。
「詩音さん、分かったわ。この試験が終わったらその話、聞かせて?」
だからあたしは一歩踏み出した。
「それと詩音さん、一旦重くしていい?」
そう言って、軽く手をかざした。
「え? ちょ、ちょっとなにを――」
「安心して。あとで詩音さんも軽くしたげるから」
〈天秤の禊〉――重力操作スキルを発動させる。
「うおぉ……っ!?」
ドスッ――と重くかかる重圧を下肢の筋力のみで踏ん張る詩音を横目に、あたしは崖の上まで舞うようにひとっ跳び。
「ごめんね、詩音さん!」
彼女への罪悪感で胸がいっぱい。
でもあたしにはこれしか方法がないから。
「詩音さんっ! 次はあなたを軽くするから、ここまで跳んでおいでー!」
「……ワ、ワタクシ、高いところは少し苦手で〜」
情けない声が崖下から響いてきた。
こればかりは、まぁ仕方ないか。
それぞれ向き不向きってあるわけだし。
「だったら詩音さん、あなたは下で待ってて! できるだけ早く帰ってくるから!」
崖下まで届くよう、大きく声を張った。
「分かりましたわ!」と元気よく聞こえてきたので、とりあえずは大丈夫か。
詩音さんが一人なのは少し不安だけど、彼女には人より優れた感知機能がある。
モンスターと遭遇することなんて、早々ないだろう。
あとはあたしがこの先を進むだけだ。
そして目の前には、この下と同じく薄く霧がかった湿地帯が広がっていた。
「ただ崖を登ったってだけで、景色は大して変わってないのね……って、あれ?」
目を凝らすと薄い霧の中、立ち止まった京士の背中がわずかに見える。
傍に寄るのは癪だけど、先に行かれるのはもっと癪。
そんな複雑な心境を持ちつつも、目の前の白影京士のところまで、あたしは歩みを寄せた。
「……まだ、先でしょ? アストラカリスは」
「……っ!?」
目をかっ開き、あたしへ振り向く京士。
「なんだテメェ、ついてきやがったのか!」
そう毒を吐きながら、手に持つスマホを隠すようにポケットへ仕舞う。
「そんなに急いで隠さなくても……」
「ウルセェ! とっとと行くぞ!」
京士はそう言って、再び先を進んでいく。
怪しい。
別に何がってわけじゃないけど、行動自体が。
ダンジョン演習中に、何を企むことがあるっていうの?
「……なんなのよ、もう」
わけがわからないけど、これ以上考えたってしょうがない。
あたしたちの目的は、あくまでアストラカリスの採取なんだから。
「この先をまっすぐ行けば、いいのね」
ようやく感じ取れたその花の魔力。
だいぶ近づいたってことだろう。
あたしは駆けた。
脇目も振らず、まっすぐと。
足を進ませている中、どうしようもない胸のざわめきを感じた。
崖下での詩音さんの様子に、さっきの白影京士。
このダンジョン演習の裏で、何かが渦巻いているような。
そんなことを言うと、少し大袈裟かもしれないけど。
……そもそもチーム分けからおかしかった。
こんなに人数がいる中で、この組み合わせ。
なんだかすごく作為的。
やっぱり嫌な予感がする。
早く……演習を終えて、帰りたい。
様々な感情が交錯しながらも、あたしはアストラカリスの元へ駆けていった。
それから必死に急いだおかげで、ようやく京士の背中に追いつく。
……というかこの先がさらに高くそびえ立つ第二の崖なのだから、彼が立ち止まるのもまぁ当然。
そして今度の崖は、先ほどよりさらに高さがあり、岩肌も荒く尖っていた。
それに所々にひびが入り、表面はかなり脆そう。
「……やって、やるぜ」
そんな場所を、京士はまたしてもよじ登ろうとしていた。だけど今度はうまくいかない。
「くそっ、もろすぎる!」
拳を突き立てるたび、岩が崩れ落ちる。
「……さすがにそれじゃ登れないわよ」
見るに見かねてそう口走ると、京士がぐるりとあたしへ一瞥くれる。
「チッ、来やがったのか」
あれだけ個人評価を気にしていた京士――あたしがここにいることに、心底腹を立てていることだろう。
それは彼の持つ高いプライドがそうさせるのか。
それともアストラカリスを単独で採取し、個人評価を上げることが彼にとって何らかのメリットになるのか。
はたまた、その両方か――
「お前、重力で跳べねーのか?」
「……え、」
思わず言葉に詰まる。
まさかここまで独りよがりに進んできた京士が自ら協力を求めるなんて、思いもしなかったから。
「だから、お前は跳べねぇのかって聞いてんだ!」
「……で、できなくはないけど、あの高さを跳ぶには、アンタにかなりの重力をかけなきゃダメね」
さっきよりも遥かに高い崖。
しかも途中の出っ張りに咲く白い花――アストラカリスめがけてとなると、かなり重力のコントロールも難しい。
京士は黙って空を見上げた後、崖に咲くアストラカリスへ視線を移す。
「……だったらあの部分だけ、重力で下に落っことせねぇのか?」
あの部分ってのは、おそらく花の咲いた岩の出っ張りのこと。
つまりはあたしを軽くして、あの岩の出っ張りを重く――そして簡易的な岩崩れを起こす。
そんな考え、全くなかった。
物理的には可能……いや、可能どころか――
「……それ、アリかもね」
今の最適解かも。
あたしは一歩前に出た。
自分と、アストラカリスが咲いている岩の一角。
そのふたつを天秤にかける。
そしてあたしを極限まで軽くして、崖の一部だけを重く。
そうすれば、そこだけ自重に耐えきれず、地面に落ちるはず――
「ちょっと乱暴だけど……やってみよっか」
手をかざし、重力を操る。
……ミシ、ミシッ――
崖の一角が音を立ててひび割れ、やがてアストラカリスを乗せた岩片だけが、重力に引き寄せられるように崩れ落ちた。
「よし、成功――」
満足げに微笑んだその瞬間、
「ありがとな、桐島澪」
「え――」
不意に耳元で囁かれたその声と同時に、脇腹を貫くような衝撃が襲った。
「っぐ……!?」
あたしは宙を舞った。
重力を軽くしていたぶん、防御力はまるで紙同然。軽さが裏目に出た。
今の衝撃は……きっと、普通の三倍以上。
そして地面への落下。
体を打ち付けた痛みなんてのは大したことない。
それよりも脇腹だ。
これ、完全に折れてるって……。
「なっ……なに、を……あな、た……」
鈍い痛みが視界を歪ませる。
「お前と同じチームだったのは、本当にラッキーだった。こうやって、直接振り落とせんだからよォ! 悪いが一番になんのは白影家であるオレなんだ! それを邪魔するもんは……誰だろうと潰してやる」
京士が足元に落ちたアストラカリスを拾いながら、あたしへ同情の眼差しを向けてくる。
やっぱり今のは、わざと――
これはあくまで学校の行事。
仮にも今だけは仲間のあたしを、こうも簡単に切り捨てるなんて。
そんなの、許されるわけがない。
そこまでして守らなきゃいけない家柄って……白影家って、一体なんなの?
どうして、そこまで……。
はぁ……はぁ……。
息が、苦しい……。
衝撃による痛みと予想外の出来事に、あたしの精神はすでに限界だった。
痛い……苦しい……ワケが分かんない……。
なんで、あたしが……こんな、目に――
「じゃあな。テキトーなタイミングで迎えにきてやっから、大人しくそこで寝てろ」
霞む視界の中、京士の背中が遠くなっていく。
「……だれか、助けて」
そうだ――このダンジョンには、撮影用のドローンが飛んでるはず。
それできっと、怜先生や他のだれかが助けにきて、それで、それで……。
「……澪ちゃんっ!」
完全に意識が途絶えようとしていた時、まるで走馬灯のように見知った声が脳に響く。
「あれ、廻?」
だけど……彼はここにいないはず。
もしかしてあたし、夢を見てるの?
いや、でも確かに彼がいる。霧の中から差し込む光のように、廻が――あたしの横腹に手を当てて、何かを一心に込めてくれていた。
暖かくて気持ちいい。
不思議と痛みも消えてきた。
「……君は俺が、必ず助けるから」
まるで廻らしくないかっこいいセリフ。
たとえこれが夢だとしても、
誰かがあたしのために駆けつけてくれることだけで十分心が救われる。
だから――安心して、眠れそう。
こうしてあたし、桐島澪の記憶はここで完全に途切れたのだった。




