第9話 収穫祭の夜に
季節は巡り、ウィンスレット領に秋が訪れた。
かつては荒れ果て、石ころだらけだった大地は今、見渡す限りの黄金色に染まっている。
風が吹くたびに、重たげに頭を垂れた麦の穂がザワザワと擦れ合い、まるで大地が歓喜の歌を歌っているようだった。
豊作だ。
過去数十年で一番の、大豊作だった。
シルヴィアの改革によって導入された新しい農法と、アレンたちが泥にまみれて掘り進めた用水路のおかげだ。
そして今夜は、その恵みを祝う「収穫祭」の日だった。
「うわぁ……! すごい、本当に金色だわ!」
領主館のテラスから、シルヴィアが歓声を上げる。
村の広場には巨大な櫓が組まれ、その周囲を無数の松明が取り囲んでいる。
夕闇が迫る中、揺らめく炎が麦畑を照らし出し、幻想的な光景を作り出していた。
「準備はいいか、シルヴィア?」
俺が声をかけると、彼女はくるりと振り返った。
その姿を見て、俺は一瞬、言葉を失った。
今日の彼女は、いつもの作業着ではない。
村の女たちが、「若奥様のために」と内緒で仕立ててくれた祭り用のドレスを身に纏っている。
鮮やかな茜色の生地に、白い刺繍が施された民族衣装風のドレス。銀の髪には、秋の花々で編んだ花冠が飾られている。
王都の夜会で見た、冷たく澄ました「青い月の女神」ではない。
今の彼女は、大地の実りを祝福する「豊穣の女神」そのものだった。
「どう? 変じゃないかしら? 少しスカートが短い気もするけれど……」
「いや、最高だ。……王宮のどんなドレスよりも、今の君の方がずっと綺麗だ」
お世辞ではなかった。
健康的に日焼けした肌。労働によって引き締まった体躯。そして何より、内側から溢れ出るような生命力に満ちた笑顔。
俺は、眩しくて目を細めた。
「行きましょう、アレン! みんなが待ってるわ!」
彼女が俺の手を引く。
その手は温かく、力強かった。
***
村の広場は、すでに熱気に包まれていた。
中央に据えられた巨大な焚き火から火の粉が舞い上がり、夜空を焦がしている。
肉が焼ける香ばしい匂い。エールの入った樽が開けられる音。フィドル(弦楽器)と太鼓が奏でる、軽快で土臭い音楽。
「領主様のおなりだー!」
ガルドが太い声で告げると、広場の喧騒が一瞬止まり、次の瞬間、割れんばかりの歓声が爆発した。
「アレン様ー! シルヴィア様ー!」
「見てくだせえ、この麦の山を!」
「全部、お二人のおかげです! ありがとうございます!」
老若男女が駆け寄り、俺たちを取り囲む。
泥だらけの手が差し出され、俺たちは一人一人と握手を交わした。
涙を流して拝む老婆。収穫したばかりの林檎を差し出す子供。
誰もが笑っていた。飢えの恐怖に怯えていた半年前が嘘のように、生きる喜びに満ち溢れていた。
「……アレン、見て」
シルヴィアが、涙ぐみながら俺を見上げた。
「みんな、笑ってる。……私たちがやったことは、無駄じゃなかったのね」
「ああ。これが俺たちの成果だ。君が守った、みんなの笑顔だ」
俺は胸がいっぱいになり、言葉に詰まった。
この光景を見せたかった。
王都で「無能な人形」と蔑まれていた彼女に、君はこんなにも多くの人を幸せにできる力を持っているのだと、証明したかった。
「さあさあ、湿っぽい話はなしです! 今日は無礼講ですよー!」
空気を読まない明るい声と共に、両手にジョッキを持ったミアが割り込んできた。
彼女も祭り用の服を着ているが、エプロンはすでに何かのソースで汚れている。
「シルヴィア様、飲みましょう! これは村長秘蔵の葡萄酒です!」
「まあ、美味しそう! いただくわ」
「アレン様にはこれ! ガルドさんが狩ってきた猪の丸焼きです!」
「おっと、豪快だな」
宴が始まった。
身分も立場も関係ない。領主も農民も、同じ焚き火を囲み、同じ酒を飲み、同じ歌を歌う。
それは、王宮の張り詰めた夜会とは対極にある、野暮ったくて、騒がしくて、最高に温かい夜だった。
やがて、音楽のテンポが速くなった。
広場の中央で、村の若者たちが踊り始める。
ステップなど決まっていない。ただリズムに合わせて体を動かし、大地を踏み鳴らす、原始的で力強いダンスだ。
「シルヴィア様! 一緒に踊りましょう!」
「えっ、私!? でも、踊り方なんて……」
「適当でいいんですよ! 楽しいなら回る! 嬉しいなら跳ねる! それだけです!」
村娘たちに手を引かれ、シルヴィアが輪の中へと連れ出されていく。
彼女は最初こそ戸惑っていたが、すぐにコツを掴んだようだった。
長いスカートを翻し、軽やかにステップを踏む。
炎の光が彼女の銀髪を赤く染め、汗ばんだ頬がルビーのように輝く。
「……ははっ」
俺はエールを飲み干し、その姿に見惚れていた。
優雅なワルツではない。泥臭いフォークダンスだ。
けれど、そこで笑っているシルヴィアは、俺が今まで見たどんな女性よりも美しかった。
生きている。彼女は今、全身で「生」を謳歌している。
「行かないんですか、坊ちゃん」
いつの間にか、隣にガルドが立っていた。彼もすでに随分と飲んでいるらしく、赤ら顔だ。
「俺はいいよ。見ているだけで十分だ」
「へっ、すかしたこと言ってんじゃねえよ。……ほら、呼ばれてますぜ」
ガルドが顎で指した先。
ダンスの輪の中心で、シルヴィアが俺に向かって手を伸ばしていた。
満面の笑みで。
「アレン! 来て!」
その声に、俺の体は勝手に動いていた。
歓声の中、俺は輪の中に飛び込み、彼女の手を取った。
「踊り方なんて知らないぞ!」
「私もよ! でも、楽しいわ!」
俺たちは手を取り合い、炎の周りを回った。
目が回るような速さ。高鳴る鼓動。重なり合う呼吸。
世界が光の渦になって流れていく中で、目の前の彼女だけが鮮明だった。
汗で張り付いた前髪。
興奮で潤んだ瞳。
弾けるような笑顔。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
ああ、そうだ。
俺は、この笑顔を守りたかったんだ。
公爵令嬢だからじゃない。可哀想だったからでもない。
ただ、この人が好きだから。
泥にまみれても、理不尽に傷つけられても、それでも前を向いて歩こうとする、この魂が。
どうしようもなく、愛おしいから。
「……シルヴィア」
「なぁに、アレン?」
音楽がかき消すほどの喧騒の中で、俺たちは見つめ合った。
俺の腕の中に、彼女がいる。
彼女の体温が、俺に伝わってくる。
今しかない、と思った。
この最高の夜に。
彼女に、伝えなければならないことがある。
「……少し、抜け出さないか」
俺が耳元で囁くと、シルヴィアは驚いたように瞬きをし、それから悪戯っぽく笑って頷いた。
「ええ。……連れて行って」
それは、あの王宮の夜に交わした言葉と同じだった。
けれど意味は全く違う。
あの時は「逃避」だった。
今は、「未来」への誘いだ。
俺たちは手を取り合い、熱狂する広場をそっと抜け出した。
向かう先は、二人でよく登った、領地を一望できるあの丘。
背後では、まだ祭りの音楽が続いている。
けれど、俺たちの耳にはもう、互いの足音と、重なり合う鼓動の音しか聞こえていなかった。




