第8話 ドジな侍女と頼れる騎士
シルヴィアの「軍師」としての才能が開花したことで、ウィンスレット領の経営改革は驚くべき速度で進み始めていた。
不当な契約の見直しによって財政の出血が止まり、新たな販路の開拓によって、領民たちの懐も少しずつ潤い始めている。
屋敷の中にも、以前のような陰鬱な空気はなく、活気と希望が満ちていた。
そんな、忙しくも充実したある日の午後のことだ。
「ひゃああああっ! た、助けてくださぁぁぁい!」
屋敷の裏庭から、鶏が絞め殺されるようなけたたましい悲鳴が響き渡った。
執務室で書類を確認していた俺とシルヴィアは、顔を見合わせると、慌ててペンを放り出して窓際へ駆け寄った。
「なにごとだ!?」
「まさか、魔物!?」
身構えて窓の外を覗き込んだ俺たちの目に飛び込んできたのは――魔物よりもある意味で厄介な、とんでもない光景だった。
裏庭に張られた洗濯用のロープ。
そこには、強風に煽られた巨大なシーツと共に、ぐるぐると簀巻き状態になって空中で回転している、小柄な少女の姿があった。
「……ミア?」
「目が、目が回りますぅぅぅ!」
屋敷唯一の侍女、ミアだ。
どうやら強風で飛ばされそうになったシーツを必死に押さえ込もうとして、逆に自分が巻き込まれ、ロープに絡まってしまったらしい。まるで巨大なミノムシだ。
「まったく、お前ってやつは……!」
呆れたような怒声と共に、裏口から巨漢が飛び出してきた。
近衛兵のガルドだ。
身長二メートル近い筋肉の塊のような彼は、暴れるシーツ(と中身のミア)を軽々と受け止めると、ナイフで器用に絡まった紐を切断し、彼女を地面に下ろした。
「ぷはっ! あ、あ、ありがとうございます、ガルドさん……! 死ぬかと思いました……!」
「死にゃしねえよ。ったく、洗濯物干すだけで命がけになる奴がどこにいる」
ガルドはぶっきらぼうに言い放つが、へたり込んだミアの頭についた葉っぱを払ってやる手つきは、驚くほど優しかった。
俺とシルヴィアは、ほっと息をついて、裏庭へと降りていった。
「大丈夫か、ミア。怪我はない?」
「アレン様、シルヴィア様……! ううぅ、申し訳ありません……。シルヴィア様のシーツが、私のせいで泥だらけに……」
ミアが涙目で、泥にまみれたシーツを抱きしめている。
彼女はこの村の娘で、俺たちを慕って屋敷に入り込んでくれたのだが、やる気だけが空回りする典型的なドジっ子だった。
一日に三回は皿を割り、二回は転び、一回は何かしらをひっくり返す。
普通なら解雇されても文句は言えないレベルだが、彼女の淹れるお茶は不思議と美味しく、何よりその底抜けの明るさが、この寂れた屋敷を照らしていた。
「怪我がなくてよかったわ。シーツなんて、また洗えばいいもの」
シルヴィアがしゃがみ込み、ミアの頭を優しく撫でる。
「それより、そんなに頑張ってくれてありがとう。風が強かったものね」
「シ、シルヴィア様ぁ……! 女神様ですかぁ……!」
ミアが感激して泣き出し、シルヴィアの腰に抱きつく。
シルヴィアは困ったように、でも嬉しそうに微笑んで彼女を受け止めていた。
その様子を見て、ガルドが俺の隣で深々とため息をついた。
「……甘いっすよ、お二人とも。こんなドジっ子、甘やかしたらつけあがりますぜ」
「はは、そう言うなよガルド。お前だって、さっきずいぶん優しい顔をしていただろ?」
「はっ! 勘弁してくださいよ。俺はただ、こいつが怪我したら飯炊き係がいなくなって困ると思っただけです」
ガルドはそっぽを向いて鼻を鳴らす。耳が少し赤い。
この男は、俺の乳兄弟であり、幼い頃からの剣の師匠であり、無二の親友だ。
口は悪いし態度はでかいが、その剣の腕は王都の騎士団長クラス。本来ならこんな辺境でくすぶっているような男ではない。
俺は小声で、彼に問いかけた。
「……ガルド。正直、どう思ってる?」
「あん?」
「シルヴィアのことだ。……最初、お前は反対していただろ」
王都からシルヴィアを連れ帰った夜。ガルドは俺を怒鳴りつけた。「一時の感情で領民を危険に晒すな」「お姫様ごっこに付き合う暇はない」と。
彼は現実主義者だ。役立たずの元公爵令嬢など、お荷物でしかないと考えていたはずだ。
ガルドは腕を組み、ミアをあやすシルヴィアの姿をじっと見つめた。
日差しの中で輝く銀髪。泥で汚れたエプロン。そして、領民の娘に向けられる、嘘偽りのない慈愛の眼差し。
「……認めざるを得ませんね」
ガルドが、ポツリと言った。
「最初は、ただの我儘なお嬢様かと思ってましたよ。どうせ三日もすれば泣き言を言って、王都へ帰せと騒ぎ出すだろうって」
彼は苦笑して、首を振る。
「ですが、あの方は本物だ。畑仕事も、掃除も、夜遅くまでの帳簿整理も……弱音一つ吐かねえ。それどころか、俺たちが気づかなかった領地の問題点を次々と解決しちまった」
「ああ。俺も驚いているよ」
「それに……何より、あの方はアレン様を、坊ちゃんを大事にしてくれている。見てりゃわかりますよ。あの人の行動の全ては、坊ちゃんとこの領地のためだ」
ガルドが俺に向き直り、ニカっと笑って、俺の胸を拳で軽く小突いた。
「いい嫁さんもらったな、坊ちゃん。……俺の剣は、あんたとお姫様を守るためにある。あの方になら、背中を預けてもいい」
無骨な騎士の、最大限の賛辞。
胸の奥が熱くなる。
俺たちが積み上げてきたものは、間違いじゃなかった。
「ありがとう、ガルド。……頼りにしてる」
***
その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。
シルヴィアの提案で、ミアが失敗して潰してしまったカボチャを使い、特製のポタージュを作ることになったのだ。
薄暗いダイニングルーム。
高価なシャンデリアも、銀の食器もない。あるのは使い込まれた木のテーブルと、素朴な陶器の皿だけ。
けれど、湯気の立つ鍋を囲んで座る四人の顔は、どんな王侯貴族の晩餐会よりも明るかった。
「はいっ、お待たせしました! ミア特製、カボチャのポタージュです!」
ミアがお盆を持って現れる。足元がおぼつかない。
ガルドがすかさず立ち上がり、お盆ごとひったくるように受け取る。
「貸せ! お前が運ぶと床が飲むことになる!」
「むぅ! 今日は大丈夫だったのにぃ!」
「はいはい、座ってろ。……シルヴィア様、どうぞ」
「ありがとう、ガルド。……まあ、いい香り」
黄金色のスープを一口すすると、濃厚な甘みとバターの香りが口いっぱいに広がった。
「うん、うまい! カボチャの甘みがすごいな」
俺が声を上げると、ミアがパァっと顔を輝かせる。
「本当ですか!? やったぁ! 隠し味に、シルヴィア様に教えてもらったミルクを少し多めに入れたんです!」
「さすがシルヴィアだ。……あ、このパンも焼きたてか?」
「ええ。今日は少し余裕があったから、私も生地を捏ねてみたの」
シルヴィアが少し粉のついた指先を見せて、はにかむ。
王都にいた頃の彼女は、食事といえば無言で、毒見役が舐めた冷めた料理を機械的に口に運ぶだけだったと言っていた。
それが今、こんなにも楽しそうに、自分たちの作った料理を味わっている。
「おかわり、あるか?」
ガルドが空になった皿を差し出す。
「ありますよ! 鍋ごと食べちゃってください!」
「食えるか馬鹿野郎」
ワハハ、と笑い声が弾ける。
ランプの暖かい光が、みんなの笑顔を照らしている。
俺はスープをすすりながら、ふと、目頭が熱くなるのを感じた。
これが、「家族」なのかもしれない。
血の繋がりはないけれど、同じ場所で眠り、同じ釜の飯を食い、同じ未来を見ている仲間たち。
俺にとって、これ以上の宝物はなかった。
テーブルの下で、そっとシルヴィアの手を探す。
すぐに、柔らかい手が俺の指に絡まった。
隣を見ると、彼女も俺を見ていた。藍色の瞳が、ランプの光を映して優しく揺れている。
言葉はいらなかった。
握りしめた手の温もりが、すべてを伝えてくれていた。
――幸せだね、と。
俺も力を込めて握り返す。
この温かい時間が、いつまでも続いてほしい。
不器用な侍女の失敗談に笑い、頼れる騎士の憎まれ口に安らぎ、愛する人と手を取り合う、このささやかで尊い日常。
この小さな屋敷が、世界で一番安全で、幸福な場所であり続けますように。
俺は心の中で強く誓った。
何があっても、この場所を守り抜く。
ジェラルド王太子の魔の手が迫ろうとも、世界の全てを敵に回そうとも。
この食卓の笑顔だけは、絶対に誰にも奪わせない。
窓の外では、風が強くなり始めていた。
冬の足音が近づいている。
そして、それよりもっと冷たく、残酷な運命の足音もまた、確実に俺たちの楽園へと近づいていた。




