第7話 意外な才能
ウィンスレット領での生活が始まって、半月が過ぎようとしていた。
慣れない肉体労働による筋肉痛が、ようやく心地よい疲労感へと変わり始めた頃。
俺たちの前には、斧や鍬ではどうしても打ち砕けない、巨大で冷徹な壁が立ちはだかっていた。
それは、「貧困」という名の、逃れられない現実だ。
深夜の執務室。
窓の外では、北の山脈から吹き下ろす冷たい風が唸りを上げ、古びた屋敷をガタガタと揺らしている。
室内には、いまにも消え入りそうなランプの灯りだけが頼りなく揺らめき、机に向かう俺の影を長く、歪に壁へと映し出していた。
「……くそっ。どう計算しても、足りない」
俺のうめき声が、静寂に重く沈んでいく。
両手で頭を抱え、髪をかきむしる。指に絡まる髪の感触さえも焦燥感を煽るようだった。昼間、畑で鍬を振るっている時のような充実感はどこにもない。ただ、見えない首輪で締め上げられているような息苦しさだけがある。
机の上には、山のように積まれた羊皮紙の束が散乱している。
領地の収支を記録した帳簿、王都の財務局から届いた税の督促状、近隣の商人たちとの取引記録。
それらはすべて、この領地が緩やかに、しかし確実に「死」に向かっていることを示す宣告書だった。
コン、と小さな音がして、湯気の立つカップが視界の端に置かれた。
顔を上げると、シルヴィアが心配そうな瞳で俺を見下ろしていた。
「アレン、少し休んだら? 根を詰めすぎよ。顔色が悪いわ」
彼女の手には、木製の盆が握られている。裏庭で摘んだミントを淹れたハーブティーだ。爽やかな香りが、埃っぽい部屋の澱んだ空気をわずかに和らげる。
彼女も昼間の労働で疲れているはずなのに、こうして夜遅くまで俺に付き添ってくれている。
「……ありがとう、シルヴィア。すまない、君にまで気を使わせて」
俺は力なく微笑んだつもりだったが、頬の筋肉が引きつるのがわかった。
瞳は充血し、目の下には濃い隈ができている自覚がある。ここ数日、俺はまともに眠っていない。昼は領民と共に泥にまみれて働き、夜はこうして絶望的な数字と格闘する日々だ。
「でも、悠長なことは言っていられないんだ。……見てくれ、これ」
俺が震える指先で示したのは、一通の書状だった。
質の悪い紙に、尊大な筆跡で数字が書き殴られている。隣領の穀物商からの通達だ。
「今年の小麦の買い取り価格を、昨年のさらに三割下げると言ってきた。『凶作のリスクヘッジ』だとか何とか、もっともらしい理由をつけてな」
「三割も……? そんなの、暴落どころの話じゃないわ。王都の市場価格の半分以下よ」
「ああ。だが、この辺境で大量の作物をさばける商人は彼らしかいない。輸送手段を持たない俺たちは、完全に足元を見られているんだ。……それに加えて、これだ」
俺は別の羊皮紙を叩いた。王家の紋章が入った、税の徴収書だ。
「『国境警備特別税』。……今年の収穫予想と、この納税額、それに借金の利息を照らし合わせると……冬を越すための備蓄がごっそり持っていかれる計算になる。領民たちに腹一杯食わせてやるどころか、餓死者が出かねない」
俺は拳を握りしめ、机に突っ伏した。
悔しさが、歯の隙間から漏れ出す。
「俺に剣の腕があれば、魔物は倒せる。俺が先頭に立って働けば、荒れ地は耕せる。でも……この『数字の暴力』だけは、俺の腕力じゃどうにもならないんだ! 情けないよ……父上が守ってきた土地を、俺の代で終わらせてしまうかもしれないなんて」
俺は武人であり、現場のリーダーだ。
「ついてこい!」と叫べば人は動く。だが、複雑怪奇な王国の税法や、海千山千の商人たちとの駆け引きは、俺の専門外だった。剣で斬れない敵に、どうやって立ち向かえばいいのか分からない。
このままでは、座して死を待つのみだ。
シルヴィアが、そっと俺の背中に手を置いた。
温かい手のひらの感触。強張った筋肉が、少しだけ解けるのを感じる。
「……アレン」
彼女の声は静かだった。けれど、そこにはいつもの優しさとは違う、凛とした響きが含まれていた。
「その書類、少し見せてちょうだい」
俺は顔を上げた。
彼女は俺の隣に椅子を引き寄せ、断りもなくペンを手に取った。
ランタンの芯を上げて光量を増す。部屋がぱっと明るくなり、彼女の横顔を照らし出す。
シルヴィアは真剣な眼差しで帳簿の数字を目で追っていた。
深く息を吸い込み、集中する。その姿は、昼間泥だらけになっていた村娘ではなく、かつて夜会で見せた「公爵令嬢」の気品を纏っていた。
いや、それ以上に研ぎ澄まされた、知性の輝きがあった。
「……違和感があるわ」
彼女が呟く。
すぐに、いくつかの数字が歪んでいることに気づいたようだった。
それは、無知な田舎貴族を食い物にするために仕掛けられた、卑劣な罠の数々だ。
「アレン。この『国境警備特別税』というのは、いつから払っているの?」
「ええと……三年前からだ。隣の領地の代官が『法律が変わった、辺境の義務だ』と言ってきて……父上も病床だったし、言われるがままに」
「騙されているわ」
私はきっぱりと言い切った。ペンの先で、その項目を弾く。
「辺境伯法第十三条、第四項。『魔物の脅威に晒される北方の領地は、自警団の維持費を自己負担することを条件に、国境警備税の全額免除を認める』。……あなたたちは自警団を組織しているわよね? なら、この税金は一銭たりとも払う必要がないのよ」
俺はぽかんと口を開けた。
「え……? ほ、法律で決まっているのか? で、でも、代官は『王都の決定だ』と……」
「その代官が着服しているのよ。地方ではよくある手口だわ。王都への報告書を改ざんして、差額を懐に入れているのね」
彼女は怒るでもなく、淡々と事実を指摘し、ページをめくる。
次は商人との契約書だ。
「それから、この小麦の取引契約書。……ひどいものね。『品質保証料』? 『輸送リスク負担金』? こんな名目で、正当な対価からさらに二割も引かれているわ。商法第百二十条における『優越的地位の濫用』に抵触する可能性がある。無効よ、こんな契約」
俺の目が、信じられないものを見るように見開かれていく。
彼女の口から飛び出すのは、俺が一生かかっても覚えきれないような法律や商習慣の知識だ。
「な、なんでそんなことが分かるんだ? 君は、深窓の令嬢だったはずじゃ……」
シルヴィアは苦笑して、ペン先をインク壺に浸した。
たっぷりと黒いインクを含んだペン先が、ランプの光を反射して鋭く光る。それは今の彼女にとって、どんな名剣よりも頼もしい武器だった。
「ええ。私は温室育ちの世間知らずだったわ。ドレスを選び、お茶を飲み、ピアノを弾くことしか知らなかった」
彼女の視線が、遠い過去を見るように細められる。
「でもね、アレン。公爵家の娘として、王太子の婚約者として、『王妃教育』だけは徹底的に叩き込まれたの。国を運営するための法知識、経済の仕組み、貴族間の駆け引き……。ジェラルド殿下からは『可愛げがない』『女に学問など不要だ』と嘲笑されながらも、私は図書室にこもって、それらを頭に詰め込み続けたわ」
脳裏に浮かんだのは、煌びやかな王宮の片隅で、一人分厚い本と格闘する幼い彼女の姿だ。
友人もなく、遊びも知らず。
ただ「次期王妃として恥ずかしくないように」と、誰からも褒められることのない努力を続けていた、灰色の青春。
胸が締め付けられるようだった。
だが、シルヴィアは誇らしげに顔を上げた。
「あの辛くて、無意味だと思っていた時間が。……まさかこんな最果ての地で、愛する人を救うための力になるなんて。運命とは、なんて皮肉で、なんて素晴らしいのかしら」
彼女は新しい羊皮紙を広げ、猛然とペンを走らせ始めた。
迷いはない。思考がクリアに澄み渡っていくのが、横で見ている俺にも伝わってくる。
「見ていて。……私が、あなたの失われた利益を、不当に奪われた血と汗の結晶を、すべて取り戻してみせる」
カリカリ、カリカリ……。
ペン先が紙を擦る音だけが、静寂の部屋にリズミカルに響く。
それは、俺にとっての剣戟の音と同じ、戦いの音だった。
まずは、代官への抗議文だ。条文を引用し、過去の判例を並べ立て、こちらの正当性を論理的に主張する。感情論ではなく、法という絶対のルールで相手を殴りつける、反論の余地のない文章。
次に、悪徳商人への通告書。不当契約の破棄と、新たな取引条件の提示。
さらに、領内の作物を隣の領地を通さず、直接南部の商都と取引するための流通ルートの構築案。これには、以前俺が何気なく話していた「今は使われていない獣道」を活用するプランが記されていた。
俺は息を呑んで、彼女の横顔と、次々と生み出される書類を交互に見つめていた。
美しい。
ドレスを着ていた時よりも、泥にまみれていた時よりも。
知性を武器に戦う今の彼女は、神々しいほどに美しかった。
一時間後。
シルヴィアはペンを置き、ふゥ、と深く息を吐いた。指先にインクの染みがついているが、彼女は気にも留めない。
書き上げた書類の束を整え、俺に手渡す。
「これでどうかしら。……税の免除申請が通れば、支出は三割減らせる。不当な契約を破棄し、新しい販路を開拓できれば、収入は倍になる計算よ。少なくとも、今年の冬を越すだけの備蓄は十分に確保できるはず」
俺は書類を震える手で受け取り、食い入るように読み込んだ。
文字を追うごとに、視界が滲んでいく。
絶望から驚愕へ。驚愕から希望へ。そして、深い深い感動へ。
ここには、俺たちが生き延びるための「道」が、はっきりと記されていた。
俺はゆっくりと書類を机に置き、顔を上げた。
「……魔法だ」
「え?」
「これは魔法だよ、シルヴィア。俺が何日悩んでも、どんなに剣を振るっても出口が見えなかった暗闇の迷宮に、君が一瞬で光の道を引いてくれた」
俺は立ち上がり、彼女の手を取った。
インクで汚れ、畑仕事で少し荒れた彼女の手。
それを、壊れ物を扱うように両手で包み込む。その手は熱く、脈打っていた。
「すごい……本当にすごいよ、君は。ただ守られるだけのお姫様なんかじゃない。……君は、俺たちの軍師だ」
「軍師……」
その言葉に、シルヴィアが目を丸くする。
そして、花が咲くように嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……役に、立てた?」
「ああ。救われたよ、本当に。俺だけじゃない、ウィンスレット領の全員が、君に救われたんだ」
俺は感極まったように、彼女の手を自身の額に押し当てた。
まるで女神に祈りを捧げるように。
その熱が、俺の安堵と感謝を、言葉以上に雄弁に伝えてくれる気がした。
「ありがとう、シルヴィア。君を連れてきて良かったと、心から思う。……君の頭脳と、俺の剣があれば、この領地はきっともっと良くなる。いや、俺たちが変えていける」
顔を上げ、俺は満面の笑顔を彼女に向けた。
心の底から湧き上がる、希望の笑顔だ。
「ええ、やりましょうアレン。……私、この領地を『世界一幸せな場所』にしてみたいの」
シルヴィアは俺の手を握り返してきた。強く、確かに。
この夜、俺たちは本当の意味で「パートナー」になった。
守り守られるだけの関係ではない。互いに足りないものを補い合い、背中を預けられる対等な関係。
それは、ただの恋人同士よりも深く、強い絆の始まりだった。
窓の外ではまだ北風が吹いている。
けれど、この部屋の中には、確かな希望の灯がともっていた。
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合った。
これから始まる改革の日々。それはきっと困難の連続だろう。
けれど、シルヴィアとなら――この人となら、どんな壁も乗り越えていける。
そう確信した夜だった。




