第6話 令嬢の決意、領主の覚悟
ウィンスレット領での生活が始まって三日目の朝。
冷たい井戸水で顔を洗い、俺は朝日が昇る前の薄暗い裏庭へと出た。
手には使い込まれた斧。目の前には、冬に備えて積み上げられた丸太の山がある。
「ふんっ!」
気合と共に斧を振り下ろす。
乾いた音が響き、硬い樫の木が真っ二つに割れて地面に転がる。
この領地では、領主だろうが何だろうが、働かざる者は食うべからずだ。父が倒れて以来、こうして朝の鍛錬を兼ねた薪割りは俺の日課になっていた。
白い息を吐きながら、俺は次の丸太をセットする。
斧を振るいながら、考えるのはやはりシルヴィアのことだった。
(……昨日はよく眠れただろうか)
王都の豪奢な寝室とは比べ物にならない、隙間風の吹く客間。布団だって最高級の羽毛ではなく、古びた羊毛のものだ。
彼女は文句ひとつ言わずに受け入れてくれた。食事だって、固いパンをスープに浸して、美味しそうに食べてくれた。
その健気さが、俺には痛々しくもあった。
彼女は公爵令嬢だ。本来なら、こんな木屑と泥にまみれた場所で暮らすべき人じゃない。
今は「逃避行」という非日常の興奮で気が張っているかもしれないが、いずれこの過酷な現実に心が折れてしまうのではないか。
俺のエゴで、彼女をこんな場所に縛り付けてしまっていいのか。
「……情けないな、俺は」
迷いを断ち切るように、俺は強く斧を振り下ろした。
カァン! といい音がして、薪が弾け飛ぶ。
その時だった。
「おはよう、アレン」
背後から、聞き慣れた、けれど場違いなほど澄んだ声が聞こえた。
俺は動きを止め、汗を拭いながら振り返る。
「ああ、おはようシルヴィア。早起きだな。朝食まではまだ時間が……」
言葉が、喉の奥で止まった。
持っていた斧を取り落としそうになる。
俺は自分の目を疑い、数回まばたきをした。
「……シ、シルヴィア……?」
そこに立っていたのは、俺が知る「公爵令嬢シルヴィア・フォン・ローゼン」ではなかった。
いや、顔は彼女だ。朝日を受けて輝く銀髪も、深い藍色の瞳も、間違いなく彼女のものだ。
だが、その姿が劇的に変わっていた。
紺碧のドレスはどこにもない。
彼女が身に着けているのは、生成りの木綿のシャツに、足首まである野暮ったいロングスカート。腰には使い古されたエプロンをきゅっと締め、自慢の長い髪は邪魔にならないよう、後ろで無造作に一つに束ねていた。
それは、うちの侍女のミアが普段着ている仕事着だ。
「どうかしら? 似合わない?」
彼女は少し恥ずかしそうに、けれど悪戯っぽくスカートの裾をつまんで見せた。
似合わないわけがない。素材の良さは隠しようもなく、粗末な服がかえって彼女の本来の美しさを際立たせている。まるで、田園風景を描いた名画から抜け出してきた女神のようだ。
だが、問題はそこじゃない。
「いや、似合ってる! 凄く似合ってるけど……どうしてそんな恰好を? ドレスは?」
「部屋に置いてきたわ。これからは、これが私の正装よ」
シルヴィアは袖をまくり上げ、白く細い腕を露わにした。
「働くためよ、アレン。いつまでもお客様扱いされたくないの。私もこの屋敷の一員として、働かせてちょうだい」
俺は慌てて彼女に歩み寄った。
その手を取る。指先はまだ白く、滑らかで、労働の痕跡など一つもない。ピアノを弾き、刺繍を刺すための、芸術品のような手だ。
「気持ちは嬉しいけれど、無理だ。君の手は、労働のためにあるんじゃない。こんなことをしたら、すぐにあかぎれができるし、爪だって割れてしまう」
「いいえ、アレン」
シルヴィアは、俺の手を握り返してきた。
俺の手は、剣ダコと日々の労働でゴツゴツとしていて、泥や油が染み込んでいる。王都の貴婦人なら、触れることさえ嫌悪するような武骨な手だ。
けれど彼女は、その手を愛おしそうに両手で包み込んだ。
「私はもう、鳥籠の中の小鳥じゃないわ。あなたが連れ出してくれたのよ? ……私は、あなたの隣に立ちたいの。ただ守られるだけの存在じゃなくて、あなたを支えられる人間になりたい」
その瞳には、揺るぎない意志の光が宿っていた。
夜会で見た、凍りついたような虚ろな瞳ではない。
逃避行の馬車の中で見せた、縋るような瞳でもない。
自分の足で立ち、自分の人生を選び取ろうとする、一人の女性の強い瞳だ。
俺は彼女の覚悟に圧倒され、そして、どうしようもなく心を揺さぶられた。
この人は、俺が思っていたよりずっと強く、気高い。
「……敵わないな、君には」
俺は観念して、ふっと笑った。
彼女の「働きたい」という願いを拒むことは、彼女の尊厳を傷つけることになると悟ったからだ。
「わかった。でも、無理はしないと約束してくれ。君が倒れたら、俺が泣く」
「ええ、約束するわ。……ふふ、泣き虫な領主様ね」
「君の前でだけだよ」
彼女が嬉しそうに笑う。
朝日の中で輝くその笑顔を見て、俺はこの人を一生守り抜くと、改めて心に誓った。
***
それからの時間は、俺にとっても、屋敷の者たちにとっても、驚きと戸惑いの連続だった。
午前中は、屋敷の掃除と洗濯。
午後は、畑仕事の手伝い。
言葉にすれば簡単だが、慣れない人間にとっては苦行に近い重労働だ。
冷たい井戸水での雑巾がけ。重たい洗濯物を運ぶ作業。
シルヴィアは、ミアに教わりながら、不器用ながらも必死にそれらをこなしていった。
「奥様、あの、そこは私がやりますから!」
「いいえ、自分の分くらい自分でやるわ。……きゃっ!」
「あわわ! 大丈夫ですか!?」
廊下で足を滑らせそうになる彼女を、ガルドが慌てて支える。
そんな光景が日常になりつつあった。
そして午後。
俺たちは村の畑へと向かった。今は収穫前の大事な時期で、猫の手も借りたいほどの人手不足だ。
俺が鍬を振るう隣で、シルヴィアは土に膝をつき、雑草を抜き、作物の手入れをしていた。
「……はぁ、はぁ……」
彼女の荒い息遣いが聞こえる。
真っ白だったシャツは泥と汗で汚れ、銀髪が頬に張り付いている。
その顔色は少し青白く、足元もおぼつかない。
それでも、彼女は休もうとしなかった。
「若様……あの方、本当に公爵令嬢なんですか?」
隣で作業していた古参の農夫、トム爺さんが、信じられないものを見る目で俺に耳打ちした。
「あんな高貴な方が、俺たちと同じ泥の中にいるなんて……」
「ああ。すごい人だろう?」
「ええ、全くだ。……なんだか、勿体なくて涙が出てきそうだわい」
村人たちは最初、遠巻きに彼女を見ていた。
「王都から来た高貴なお方」という壁を感じていたのだろう。
だが、泥にまみれ、懸命に働く彼女の姿を見て、その壁はあっという間に崩れ去った。
「若奥様! こっちの畝も終わりましたよ!」
「無理しちゃいけねえ! ほら、水を持ってきました!」
「休憩にしましょう! 蒸かした芋がありますよ!」
子供たちが駆け寄り、農婦たちが世話を焼く。
シルヴィアは差し出された泥付きの芋を、嫌な顔一つせず両手で受け取り、「ありがとう」と微笑んだ。
その笑顔は、王宮で見せていた完璧な淑女の微笑みよりも、ずっと人間らしく、美しかった。
「休憩にしようか、シルヴィア」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
彼女の手を見る。かつて白魚のようだった指先は赤く腫れ、小さな切り傷が無数にできていた。爪の間には黒い土が入り込んでいる。
「……痛むか?」
俺が痛ましげに問うと、彼女は首を横に振った。
「少しね。でも……」
彼女は俺の手を握り返してきた。その手は熱く、脈打っていた。
「これが、生きている証拠のような気がするの。アレン、私、今とても清々しい気分よ」
「そうか……」
彼女の横顔が、夕陽に照らされて輝いている。
俺は自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女はただの「守られるべき存在」から、俺の隣を歩く「パートナー」へと変わりつつある。
その変化が眩しく、誇らしく、そして何より愛おしかった。
「シルヴィア。君は……本当に強い人だ。王都にいた頃の君も美しかったが、今の君は……何て言えばいいのか。直視できないくらいだ」
「まあ、お世辞が上手になったわね」
「本心だよ」
俺は彼女の泥だらけの頬に触れ、親指でそっと拭った。
彼女がくすぐったそうに目を細める。
「帰りましょう、アレン。今日はミアがシチューを作って待ってるはずよ」
「ああ。……失敗して鍋を焦がしてないといいんだが」
「ふふ、その時は二人で笑い飛ばしましょう」
俺たちは手を繋ぎ、家路についた。
長く伸びた二つの影が、夕暮れの道に重なっていく。
俺はこの時、確信していた。
彼女となら、どんな困難も乗り越えられる。この貧しい領地を、きっと豊かにできると。
この泥と汗にまみれた手が、俺たちにとっての「幸福」の形なのだと。
――それが、永遠に続くことを願いながら。




