第5話 辺境の地、ウィンスレット
王都を出てから五日目。
なだらかな丘を越えたとき、冷たく乾いた風が馬車の中へと吹き込んできた。
「……見えてきた。あれが俺の故郷、ウィンスレット領だ」
俺が窓の外を指差すと、シルヴィアが身を乗り出した。
眼下に広がるのは、荒涼とした大地だ。
痩せた土の色が目立つ畑、背の低い灌木が点在する森、そして古びた石垣に囲まれた小さな集落。
王都の豊かさとは比べるべくもない、寂れた辺境の景色。
煌びやかな世界で生きてきた公爵令嬢に見せるには、あまりにも残酷な現実かもしれない。
俺は隣に座るシルヴィアの反応を、恐る恐る伺った。
失望されるだろうか。「こんな場所で暮らせない」と言われるだろうか。
しかし、彼女の藍色の瞳は、ただ静かにその風景を映し出していた。
「……空が、広いわね」
彼女がぽつりと漏らした感想は、意外なものだった。
「王都では建物が高くて、こんなに広い空を見たことがなかったわ。……ここが、アレンが育った場所なのね」
「ああ。何もないところだろう? 冬は雪に閉ざされるし、娯楽なんて一つもない」
「いいえ。……空気が澄んでいて、とても綺麗だわ」
彼女は嘘をついていないようだった。その横顔を見て、俺の胸の奥にあった重い石が少し軽くなった気がした。
馬車は領地への入り口となる小さな村へと入っていく。
ガタゴトと車輪が鳴る音を聞きつけて、畑仕事の手を休めた村人たちが顔を上げた。
「おーい! 若様だ! 若様が帰ってきたぞー!」
「アレン様ー! おかえりなさーい!」
誰かが声を上げると、次々と人が集まってくる。
泥だらけの服を着た農夫、洗濯物を抱えたおばさん、鼻水を垂らした子供たち。皆、日焼けした顔に屈託のない笑顔を浮かべ、馬車に向かって大きく手を振っている。
「みんな、ただいま! 父上の具合はどうだ?」
俺が窓から顔を出して声をかけると、村人たちは口々に答える。
「旦那様は少し落ち着いておられますよ!」
「若様、今年の芋は出来がいいですよ! あとで屋敷に持っていきますね!」
なんてことのない会話。けれど、そこには確かに「家族」のような温かさがあった。
シルヴィアは驚いたように目を見開き、その光景を見つめている。
王族や高位貴族が通れば、平民は道を空けて平伏するのが常識だ。こんなふうに親しげに言葉を交わす領主と領民の関係など、彼女の常識にはなかったはずだ。
「……すごい。みんな、あなたが帰ってきたことを、心から喜んでいるのね」
「田舎だからな。領主も領民も、一緒に泥にまみれて生きてるんだ。……それに、俺たちがこうして笑っていられるのも、みんなが支えてくれるおかげだから」
村を抜け、さらに小高い丘を登ると、ようやく目的地が見えてきた。
領主の館――ウィンスレット男爵邸だ。
だが、それを「館」と呼ぶには、あまりにも慎ましすぎた。
石造りではなく、古びた木造の二階建て。屋根の瓦はところどころ色が剥げ、壁には蔦が這っている。王都の公爵邸なら、使用人の宿舎ですらもっと立派だろう。
馬車が玄関前に止まる。
俺は先に降りて手を差し出し、シルヴィアをエスコートした。
彼女が地面に降り立った瞬間、古い木の扉が勢いよく開いた。
「アレン様ぁぁぁっ! ご無事でぇぇぇっ!」
弾丸のように飛び出してきたのは、小柄な少女だった。
栗色の髪を二つに結び、継ぎ接ぎだらけのエプロンドレスを着ている。屋敷で働く侍女のミアだ。
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で駆け寄ってきたかと思うと――何もない平らな地面で、見事に足をもつれさせた。
「あべしっ!?」
ズサーッ!
盛大な音を立てて、ミアは俺たちの足元へスライディング土下座のような形で滑り込んできた。舞い上がる砂埃。
「……ミア、大丈夫か?」
「ううう……痛いですぅ……。感極まって走ったら足が……」
俺が苦笑しながら手を貸して起こしてやると、ミアは額の泥を拭いもせず、俺にしがみついてきた。
「よかった、よかったぁ……! 王都で捕まったんじゃないかって、みんな心配してて……!」
「心配かけたな。……ほら、泣くな。大切なお客様の前だぞ」
俺が促すと、ミアはハッとして顔を上げ、初めてシルヴィアの存在に気づいたようだった。
そして、凍りついた。
「え……あ……えええっ!?」
ミアの目が限界まで見開かれる。
それも無理はない。泥汚れと長旅の疲れがあるとはいえ、シルヴィアの放つ美しさと気品は、この辺境では異質すぎる。
紺碧のドレス(破れているが)に、銀の髪。まるで絵本から抜け出したお姫様だ。
「き、きき、綺麗……! 女神様……? 妖精さん……?」
「こら、失礼だぞ。こちらはこの国の……いや、俺の大切な方だ。今日からこの屋敷で暮らすことになる」
俺の紹介に、シルヴィアは柔らかく微笑み、ミアに語りかけた。
「はじめまして。シルヴィアと申します。……突然お邪魔してごめんなさいね。これから、よろしくお願いします」
高慢さのかけらもない、丁寧な言葉遣い。
ミアは顔を真っ赤にして、直立不動で敬礼した。
「は、はいっ! ミアです! 精一杯お仕えします! ……あ、でも私、ドジで……お皿とかよく割っちゃうんですけど……」
「ふふ、賑やかで楽しそうね」
シルヴィアがくすりと笑うと、ミアは「へへへ……」と照れくさそうに頭をかいた。
その後ろから、執事代わりの初老の男性や、他の使用人たちも集まってくる。皆、粗末な服を着ているが、その表情は明るく、温かい歓迎の空気が満ちていた。
「さあ、中へ入ろう。旅の疲れを癒やさないと」
俺たちは屋敷の中へと足を踏み入れた。
玄関ホールは薄暗く、床板は歩くたびにギシギシと軋む。隙間風が吹き込み、王宮のような暖かさはない。装飾品など何一つなく、あるのは使い込まれた家具だけ。
俺は申し訳なさが込み上げ、隣のシルヴィアに小声で謝った。
「……すまない、シルヴィア。見ての通り、隙間風だらけのボロ屋敷だ。君が住んでいた場所とは天と地ほどの差がある」
もっとマシな暮らしをさせてやりたい。
けれど、今の俺にはこれが精一杯だ。
彼女が幻滅して、失望の溜息をつくのではないか――そんな不安がよぎる。
しかし、シルヴィアは首を横に振った。
彼女は、壁に掛けられた手作りのドライフラワーや、丁寧に磨き込まれた手すりを愛おしそうに眺め、そして俺に向き直った。
「いいえ、アレン。……ここは、とても温かいわ」
その言葉は、お世辞ではなかった。
彼女の瞳には、安堵の色が浮かんでいた。
「王宮は、確かに豪華だったけれど……いつも冷たくて、張り詰めていたわ。壁の向こうに誰がいるかも分からなくて、息をするのも苦しかった」
彼女はそっと自分の腕を抱いた。
「でも、ここは違う。ミアさんたちの笑い声が聞こえて、あなたがいて、みんなが繋がっているのが分かる。……私、こんなに安心できる場所、初めてよ」
彼女の言葉に、俺の胸が熱くなる。
何も持たない俺たちが、彼女に与えられる唯一のもの。それは「体温」のある暮らしだ。
「……そう言ってもらえると、救われるよ」
「ふふ。それに、私、覚悟を決めてきたのよ?」
シルヴィアは、いたずらっぽく微笑んだ。
「『君の居場所になる』って、あなたが言ってくれたじゃない。……ここが、私の新しい家なのね」
「ああ。……ようこそ、我が家へ」
俺たちの新しい生活が、ここから始まる。
貧しくとも、誰にも邪魔されない、二人だけの生活。
窓の外からは、領民たちの笑い声と、鶏の鳴き声が聞こえていた。
それは、やがて来る「喪失」を際立たせるための、あまりにも穏やかで、あまりにも眩しい、日々の始まりだった。




