最終話 霧の向こう、約束の場所で
痛みが、ない。
首を断ち切られた瞬間の、あの焼き切れるような衝撃も。
手首に食い込んでいた縄の痛みも。
心臓を鷲掴みにされていた、喪失の苦しみさえも。
すべてが嘘のように消え失せていた。
気づけば私は、白い霧の中に立っていた。
上も下も、右も左もわからない。足元には頼りない雲のような地面が広がり、見渡す限り乳白色の世界が続いている。
寒くはない。暑くもない。
ただ、ひどく静かだった。
「……ここは、どこ?」
声に出してみる。私の声は、透き通るように響いて、霧の彼方へと吸い込まれていった。
自分の体を見下ろす。
ボロボロだった喪服は消え、いつの間にか、あの日――革命が成功し、アレンと愛を誓い合った日に着ていた、純白のドレスを纏っていた。
泥汚れも、血の染みもない。
けれど、私の心は泥濘んだままだ。
(地獄……にしては、綺麗すぎるわね)
私は苦笑した。
数え切れないほどの命を奪い、国を焼き尽くした大罪人。
私が落ちるべき場所は、業火の底であるはずだ。こんな穏やかな場所が、私の終着点であるはずがない。
それとも、これは罰なのだろうか。
何もない、誰もいないこの白い虚無の中で、永遠に孤独を噛み締め続けるという罰。
「……それでもいいわ」
私は歩き出した。
宛てなどない。けれど、じっとしてはいられなかった。
心の奥底で、微かな引力が私を呼んでいる気がしたからだ。
霧をかき分けて進む。
一歩、また一歩。
歩くたびに、生前の記憶が走馬灯のように浮かんで消える。
夜会で差し伸べられた手。
辺境の屋敷で食べた温かいスープ。
泥だらけで笑い合った畑仕事。
星降る丘での口づけ。
そして――血に染まったパレード。
胸が痛んだ。
もう肉体はないはずなのに、魂が軋むように痛む。
「アレン……」
名前を呼ぶと、霧が揺れた。
会いたい。
もう一度だけでいい。彼に会いたい。
たとえ彼が私を軽蔑し、拒絶したとしても。
一目見て、謝りたかった。
「守れなくてごめんね」と。「あなたの愛した世界を壊してごめんね」と。
どのくらい歩いたのだろう。
時間の概念などないこの場所で、私は永遠のような時を彷徨った気がする。
ふと、霧が晴れた。
目の前に、なだらかな丘が現れる。
そこには、見覚えのある景色が広がっていた。
青々とした芝生。風に揺れるシロツメクサの花畑。
私たちが愛を誓った、あの「星降る丘」にそっくりな場所。
そして、その丘の上に――人影があった。
背を向けて立っている。
少し癖のある茶色の髪。広い肩幅。
ラフなシャツに、使い古したズボン。
見間違えるはずがない。
私の、太陽。
「……ッ!」
声にならなかった。
息を呑み、足がもつれるのも構わずに駆け出した。
幻影かもしれない。近づいたら消えてしまうかもしれない。
それでも、走らずにはいられなかった。
丘を駆け上がる。
シロツメクサが足元で優しく揺れる。
彼の背中が、近づいてくる。
「アレンッ!!」
叫んだ瞬間。
彼が、ゆっくりと振り返った。
そこには、あの日と変わらない、琥珀色の瞳があった。
穏やかで、温かくて、どこまでも優しい瞳。
血に染まった顔ではない。
苦痛に歪んだ顔でもない。
私にプロポーズしてくれた時と同じ、照れくさそうな、最高の笑顔。
「……やあ、シルヴィア。待っていたよ」
その声を聞いた途端、私はその場に崩れ落ちた。
力が抜けたのではない。
罪悪感と愛しさが同時に押し寄せて、立っていられなくなったのだ。
「アレン……アレン……!」
私は芝生に手をつき、泣きじゃくった。
顔を上げられない。
彼を見る資格なんて、私にはない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
謝罪の言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「私、約束を守れなかった……! あなたの分まで生きるなんて、できなかった……! それどころか、あなたが命懸けで守った国を、この手で壊してしまったの……!」
私の手は血にまみれている。
見えない血で、真っ赤に汚れている。
ガルドやミアを裏切り、民衆を虐殺し、世界を呪った。
そんな私が、彼の前に立っていいはずがない。
「軽蔑して……! 罵ってよ……! 私は魔女よ、悪魔よ……! あなたの愛したシルヴィアは、もうどこにも……」
ふわり、と。
温かい何かが、私を包み込んだ。
顔を上げると、アレンが私を抱きしめていた。
強く、優しく。
生前と変わらない、愛おしい体温。
「……馬鹿だな、シルヴィア」
耳元で、彼の声が震えている。
「軽蔑なんて、するもんか。……ずっと見ていたよ。君が泣いていたのを。苦しんでいたのを。怒りに身を任せて、それでも僕を探して彷徨っていたのを」
「見ていたの……? なら、なおさら……!」
「辛かっただろう。寂しかっただろう。……ごめんな。俺が先に逝ってしまったせいで、君を一人ぼっちにしてしまった」
彼は私の体を離し、両手で私の頬を包み込んだ。
その親指が、溢れる涙を丁寧に拭ってくれる。
「君が壊した世界なんて、どうでもいい」
彼はきっぱりと言った。
「国も、正義も、理想も……そんなもの、君が流した涙一滴の価値もない。俺にとって大事なのは、世界中が敵に回ろうとも、君ただ一人だ」
琥珀色の瞳が、私を射抜く。
「君は頑張ったよ。俺がいなくなった絶望の中で、必死にもがいて、戦って……ここまで来てくれた。それだけで十分だ。もう、自分を責めなくていい」
許しが、与えられた。
神からではない。私が唯一、許しを乞いたかった人からの、絶対的な肯定。
凍りついていた心が、熱を持って溶け出していく。
「アレン……。私、会いたかった……。ずっと、あなたに会いたかったの……!」
「俺もだ。……もう二度と、離さない」
彼は私の腰を引き寄せ、唇を重ねた。
魂が溶け合うような口づけ。
そこにはもう、死の影も、血の匂いもない。
あるのは、永遠に変わらない愛だけ。
長い口づけの後、アレンは微笑んで、私の左手を取った。
薬指には、あの日彼がくれた、シロツメクサの指輪が光っていた。
枯れることのない、永遠の花の指輪。
「行こう、シルヴィア」
「……どこへ?」
「ここじゃないどこかへ。誰も俺たちを知らない、二人だけの場所へ」
彼は丘の向こう、白く輝く光の方角を指差した。
「あそこなら、もう誰も邪魔しない。好きなだけ寝坊して、パンを焼いて、花を育てて……俺たちの続きを始めよう」
それは、生前叶わなかった夢。
けれどここでは、それが唯一の真実となる。
「ええ……。連れて行って、アレン」
私は涙を拭い、満面の笑みで頷いた。
彼の手を握り返す。
もう、冷たくない。痛みもない。
ただ、温かい。
私たちは手を取り合い、光の中へと歩き出した。
後ろを振り返ることはない。
血塗られた歴史も、荒廃した国も、すべては霧の彼方へ消えていく。
現世では、歴史書は私を「稀代の悪女」と記すだろう。
国は荒れ、人々は長く苦しむかもしれない。
でも、そんなことはもう関係ない。
私の世界は、ここにある。
愛する人の手のひらの中こそが、私の真実の居場所なのだから。
白い光が私たちを包み込む。
その中で、アレンが私を見て、悪戯っぽく言った。
「そういえば、君。最後に随分と派手にやってくれたな。あんな怖い顔の君を見るのは初めてだったよ」
「あら、誰のせいだと思っているの? ……責任取って、これからは毎日愛の言葉を囁いてくれなきゃ許さないわよ」
「望むところだ。……愛してるよ、シルヴィア」
「私も。……愛してるわ、アレン」
二人の笑い声が、光の中に溶けていく。
それは、永遠に終わらない、幸せな物語の始まりだった。
(完)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
『愛する貴方を殺した世界を、私は許さない ~救国の聖女だった私が、処刑台の悪女になるまで~』、いかがでしたでしょうか。
本作を執筆するにあたり、私が最も描きたかったテーマは、「喪失によってのみ証明される愛の深淵」でした。
前半の物語において、アレンとシルヴィアは、誰もが羨むような理想的なカップルとして描きました。泥にまみれながら開拓に励み、手を取り合って革命を成し遂げ、民衆に祝福される未来……。それは、いわゆる「王道のハッピーエンド」そのものでした。
読者の皆様の中にも、「このまま幸せになってほしい」と願ってくださった方が大勢いらっしゃったかと思います。
しかし、だからこそ、私はその幸福を壊さなければなりませんでした。
幸せなままで終わる物語も美しいですが、「その愛が失われたとき、人はどこまで狂えるのか」という問いこそが、私が本作で追求したかったリアリズムであり、美学だったからです。
最愛の人・アレンを理不尽に奪われたシルヴィアが、正気や倫理、そしてかつての自分さえもかなぐり捨てて復讐に走る姿。それは側から見れば「悪役令嬢」や「暴君」の所業ですが、私には、彼女が世界に向けて叩きつけた、血塗られたラブレターのように思えてなりません。
彼女が世界を焼いたのは、狂っていたからではありません。アレンのいない世界に、生きる価値など一欠片も見出せなかったからです。その絶望的なまでの一途さを、皆様に感じていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
そして、物語の結末について。
現実世界(第39話)において、救いはありませんでした。国は荒廃し、シルヴィアは稀代の悪女として歴史に断罪されました。残されたガルドやミアの痛みは癒えることがないでしょう。これは、紛れもないバッドエンドです。
けれど、最終話(第40話)で描いた世界――あの白い霧の向こう側こそが、この物語の「真実」です。
現世での肉体やしがらみ、罪と罰、すべてを脱ぎ捨てて、魂だけで巡り合った二人。
「世界中を敵に回しても、君がいればいい」と言い切ったアレンと、彼の手を取ったシルヴィア。あの瞬間、二人はようやく、誰にも邪魔されない永遠のハッピーエンドに辿り着いたのだと、私は信じています。
もともと本作は、私の過去作のリメイクとしてスタートしました。「もっと読みやすく、けれどテーマはより重厚に」という挑戦でしたが、アレンとシルヴィアという二人のキャラクターが、私の予想を超えて強く、儚く生き抜いてくれたおかげで、書き手としても魂を削られるような執筆体験となりました。
この物語は、決して心地よいだけのファンタジーではありませんでした。
それでも、読み終えた皆様の心の片隅に、「シルヴィアの狂気的な愛」と「霧の向こうの再会」が、いつまでも消えない傷跡のように、あるいは温かい灯火のように残ることを願っています。
二人の魂が、安らかでありますように。
そして、彼らの生き様を見届けてくださった読者の皆様に、心からの感謝を込めて。
本当に、ありがとうございました。




