第4話 月明かりの逃避行
王都の灯りが地平線の彼方に消え、周囲を完全な闇が包み込む頃、馬車の速度はようやく緩やかになった。
「ふゥー……。ここまで来りゃあ、とりあえず一安心だな」
御者台から、ガルドの太い声が降ってくる。
俺は板張りの固い座席に背中を預け、肺の底から息を吐き出した。全身の筋肉が悲鳴を上げているが、心地よい疲労感だった。
隣を見ると、シルヴィアが膝を抱えるようにして座っていた。
最高級のシルクで作られた紺碧のドレスは泥と草の汁で汚れ、裾は破れている。綺麗に結い上げられていた銀髪も解け、肩にサラサラと流れていた。
ボロボロだ。
けれど、月明かりに照らされたその横顔は、王宮で見たどんな時よりも人間味を帯びていて、どうしようもなく愛おしかった。
「……寒くないか、シルヴィア」
「ええ、平気よ。……アレンこそ、怪我は?」
「擦り傷だけさ。ガルド、適当なところで休憩にしよう。馬も休ませないとな」
「あいよ! 川沿いのいい場所を知ってるぜ」
ほどなくして、馬車は街道を外れ、木立に囲まれた川辺で停止した。
虫の声と、川のせせらぎだけが聞こえる静寂の世界。
俺は先に降りて手を差し出し、シルヴィアのエスコートをした。彼女の細い指先が、俺の手にそっと乗る。
「ありがとう」
地面に降り立った彼女は、ふらりとよろめいた。
無理もない。慣れない逃走劇に、精神的にも限界が近いのだろう。
「無理しないで。座っていてくれ」
「でも、何か手伝わないと……」
「いいから。今は甘えてくれ」
俺は彼女を平らな岩の上に座らせ、上着を脱いで肩にかけてやった。
ガルドは慣れた手つきで枯れ木を集め、火打石で焚き火をおこし始める。パチパチと爆ぜるオレンジ色の炎が、周囲の闇を優しく押し広げた。
「へへっ、まさか坊ちゃんが本当に『お姫様』を連れてくるとはなぁ」
ガルドが鍋に水を汲みながら、ニカっと白い歯を見せて笑った。
「俺ぁてっきり、夜会の料理を土産に持ってくるくらいかと思ってたぜ」
「悪いな、ガルド。土産どころか、国一番の指名手配犯になってしまった」
「違いねえ! ウィンスレット家の武勇伝に新たな1ページだ!」
豪快に笑うガルドにつられて、俺も苦笑する。
シルヴィアが、不思議そうに俺たちを見ていた。
「……怒らないの?」
「え?」
「だって、私のせいで……あなたたちは犯罪者になってしまったのよ? 家も、生活も、すべて危険に晒して……」
彼女の声が震える。
膝の上で握りしめられた手が、白くなっていた。
責任を感じているのだ。自分が疫病神なのではないかと。
俺は焚き火のそばに座り、携行食の干し肉と硬いパンを取り出した。
「ガルドは怒らないよ。こいつは俺の乳兄弟でね、昔から俺が無茶をするたびに『面白そうだ』って首を突っ込んでくるんだ」
「そりゃあ心外だな。俺はいつだって坊ちゃんの『正義』に付き合ってやってるだけだぜ? ……ま、今回のはデカすぎて心臓に悪いがな」
ガルドがウィンクをして、温めたスープを木の椀に注ぎ、シルヴィアに手渡した。具はほとんどない、薄い塩味のスープだ。
「食いな、お嬢様。王宮のご馳走に比べたら豚のエサみてぇなもんだろうが、温まるぜ」
「ガルド、言い方!」
「あはは、いいのよ」
シルヴィアは椀を両手で包み込み、一口すすった。
ほう、と白い息が漏れる。
「……美味しい」
彼女が呟いた。
「王宮のスープは、いつも冷めていたわ。毒見役が時間をかけるから……。こんなに熱くて、温かいスープは初めて」
その言葉に、俺は胸が詰まった。
黄金の鳥籠の中で、彼女がどれほど冷たく、孤独な時間を過ごしてきたのか。
俺は自分のパンを割り、彼女に差し出した。
「これから行くウィンスレット領は、貧しい土地だ。冬は雪に閉ざされるし、夏は魔獣が出ることもある。正直、君のような高貴な女性が暮らすには過酷な場所だと思う」
俺は王都から連れ出したことの重みを、改めて噛み締めていた。
一時的な感情で救い出したけれど、本当にこれで良かったのか。彼女を泥にまみれさせる覚悟が、俺にはあるのか。
だが、シルヴィアはパンを受け取り、真っ直ぐに俺を見つめ返した。
焚き火の明かりが、彼女の藍色の瞳の中で揺れている。
「アレン。私、何も持っていないわ」
彼女は静かに言った。
「ドレスも、宝石も、家族も……名前さえ、捨ててしまった。今の私は、ただの無力な女よ。あなたのお荷物になるだけかもしれない」
「そんなこと……」
「でもね」
彼女は言葉を遮り、俺の手をそっと握った。
冷え切っていた指先が、少しずつ温まっていくのを感じる。
「あなたがくれたこの温もりだけは、何があっても離さない。……あなたが『僕が居場所になる』と言ってくれた時、私の世界は変わったの」
彼女は少しはにかんで、続けた。
「貧しくても、寒くても構わない。……アレン、あなたの隣にいられるなら、そこが私にとっての王宮よ」
なんて、強い人なんだろう。
俺は彼女の手を強く握り返し、誓うように言った。
「……ああ。俺もだ。君がいてくれるなら、辺境のボロ屋敷だって、世界一の城にしてみせる」
俺たちは見つめ合い、どちらからともなく微笑んだ。
ガルドが「あーあ、熱いねえ」と茶化して肩をすくめる音が聞こえたが、今はそれさえも心地よいBGMだった。
食事を終え、交代で見張りをすることになった。
まずはガルドが見張りにつき、俺とシルヴィアは馬車の荷台で仮眠をとることにする。
狭い荷台には毛布が一枚しかない。
「……くっついて寝ないと、風邪をひく」
「え、ええ……そうね。背に腹は代えられないわ」
言い訳のような言葉を交わし、俺たちは一枚の毛布にくるまった。
背中合わせではなく、向き合う形で。
暗闇の中、すぐ近くに彼女の吐息を感じる。シャンプーでも香水でもない、彼女自身の甘い香りが鼻をくすぐり、心臓がうるさいほど高鳴った。
「……おやすみ、アレン」
「おやすみ、シルヴィア」
彼女は俺の胸に額を預け、すぐに寝息を立て始めた。
緊張の糸が切れ、疲れが一気に出たのだろう。
俺は彼女の華奢な背中に腕を回し、守るように抱きしめた。
窓の外には、満月が輝いていた。
王都の煌びやかなシャンデリアよりも、ずっと優しく、静かな光。
俺たちの逃避行を祝福するかのように、月明かりはどこまでも続いていた。




