第38話 断頭台
夢を見ていたような気がする。
とても長くて、幸せで、そして残酷な夢を。
夜会での出会い。泥だらけの逃避行。
貧しくも温かい領地での生活。二人で見上げた満天の星空。
革命の熱狂と、結婚式前夜の甘い口づけ。
そして、血に染まったパレード。
アレンの最後の笑顔。
あの日、あの一瞬で、私の世界は色を失い、終わってしまったのだ。
――ガンッ!
鈍い衝撃と共に、現実の音が戻ってきた。
こめかみに熱いものが走り、頬を伝う温かい液体が、こびりついた泥と混ざり合って顎から滴り落ちる。
投げつけられた石礫だ。
「殺せ! この悪女め!」
「俺たちの国を返せ!」
「地獄へ堕ちろ、魔女シルヴィア!」
(ああ……うるさいわね)
鼓膜を叩くのは、何千、何万という人間が吐き出す呪詛の嵐。
王都の中央広場。
かつて私が、愛する人と並んで「革命の勝利」を高らかに宣言し、万雷の拍手を浴びたこの場所は――いまや、私一人のための処刑場と化していた。
私――シルヴィア・フォン・ローゼンは、断頭台へと続く階段を一段ずつ上っていく。
ジャラリ。ジャラリ。
足首に嵌められた重たい鉄の枷が、歩むたびに冷たく、重々しい音を立てる。
後ろ手に拘束された手首は、粗い縄が肉に食い込み、とっくに感覚なんてない。
ボロボロになった漆黒のドレスは、かつて私が「女王」として君臨した証。でも今は、ただの薄汚れた囚人服でしかない。
「よくも俺の家族を!」
「アレン様の仇だ! 貴様ごときがアレン様の名を口にするな!」
罵声の波が、容赦なく私を打ち据える。
かつて私を「聖女」と崇め、ひざまずいて祈りを捧げた彼らの瞳。そこに宿っているのは、いまやドス黒い殺意だけ。
当然だわ。
私がそう仕向けたのだから。
焼き尽くしたのだ。
最愛のアレンを奪ったこの国を。民を。秩序を。
彼がその命を賭して守ろうとしたすべてを、私自身のこの手で、徹底的に壊したのだから。
これは罰ではない。私が望んだ、破滅の終着点。
階段を上りきると、そこには粗末な木の台と、顔を隠した大柄な執行人が待っていた。
眼下に広がるのは、憎悪に歪んだ人々の海。
その彼方には、私が焼き払った王宮の残骸が、黒い墓標のように煤けて佇んでいる。
吹き抜ける風が冷たい。
けれど、アレンを失ったあの日の寒さに比べれば、こんなものは春風のようなものだ。
「……罪人、シルヴィア」
執行人の男が、感情の抜け落ちた事務的な声で問うた。
「最後に言い残すことはあるか」
私はゆっくりと顔を上げ、鉛色の空を見上げた。
分厚い雲の隙間から、一筋の光すら射さない。まるで、世界そのものが私を拒絶しているようだ。
言い残すこと?
今さら?
謝罪?
誰に? アレンを殺したこの世界に?
後悔?
ええ、あるわ。もっと早く、彼の後を追えばよかったということだけ。
命乞い?
馬鹿なことを。私が一番望んでいるのは、この心臓が止まることなのに。
私の心にあるのは、ただ底なしの虚無と――ようやく訪れる「終わり」への安堵だけ。
「……早くして」
枯れ果てた喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど静かで、穏やかだった。
「あの人が、待っているの」
私の言葉に、執行人は顔をしかめた。
呆れたような、あるいは化け物を見るような目で私を一瞥すると、無言で巨大な斧を持ち上げる。
「殺せえええええ!!」
「死ね! 死ね! 死ね!」
群衆のボルテージが最高潮に達する。大地を揺るがすような怒号。
ギラリと、鈍い光を放つ刃が頭上で止まった。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇の中で、私の心臓だけがトクン、トクンと早鐘を打っている。
怖い?
いいえ。
寂しい?
いいえ。
ただ、愛おしい。
やっと、行ける。やっと、終わる。
長い長い悪夢から覚めて、彼の元へ帰れる。
執行人の腕が動く気配。
風を切り裂く音が迫り、死の冷気が首筋を撫でた――その刹那。
プツン。
世界から、音が消えた。
怒号も、風の音も、心臓の音さえも遠のき、スローモーションのように引き伸ばされた時間の中で、私の視界に、鮮烈な色彩が蘇る。
――鼻をくすぐる、甘く芳醇な香水の香り。
――煌びやかに輝くシャンデリアの、目が眩むような光の粒。
――優雅に奏でられるワルツの旋律と、グラスが触れ合う軽やかな音。
そして、あの日。
すべてを失った私が、すべてを手に入れた日。
運命の歯車が狂い出し、私たちが初めて出会った、あの夜会の光景。
(アレン……。ねえ、覚えている?)
断頭台の冷たい感触と共に、私の意識は過去へと遡る。
まだ何も失っていなかった。
まだ、世界が美しかった。
そして、貴方と出会い、どうしようもなく恋に落ちた、あの日へ――。
走馬灯が、終わりを告げる。
甘い夢から覚め、再び冷たい風が頬を打つ。
ああ、そうだ。
ここは王宮の夜会会場ではない。処刑台の上だ。
アレンはもういない。
私は彼を失い、狂い、世界を敵に回した大罪人。
ここにあるのは、断罪という現実だけ。
けれど、不思議と後悔はなかった。
私は全力で愛し、全力で憎み、全力で生きた。
彼のいない世界に、未練なんて欠片もない。
最期に、うっすらと目を開けて空を見上げた。
鉛色の雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいるのが見えた。
その光の中に、誰かが立っている気がした。
少し癖のある茶色の髪。
日焼けした肌。
そして、琥珀色の瞳と、優しい笑顔。
あの日のままの、私の太陽。
(……アレン)
彼が、手を差し伸べている。
泥だらけの手で。でも、世界で一番温かい手で。
迎えに来てくれたのね。
こんなに汚れてしまった私を、それでも迎えに来てくれたのね。
(待たせて、ごめんね)
私は心の中で微笑んだ。
胸のポケットに入れたお守り――ボロボロになった刺繍の布切れが、ドクン、と温かく脈打った気がした。
刃が落ちる。
衝撃はない。痛みもなかった。
ただ、重力から解き放たれるような浮遊感と共に、私の意識は光の中へと吸い込まれていく。
――愛してる。
最期の瞬間に思ったのは、ただそれだけだった。
憎しみでも、怒りでもない。
ただ純粋で、透き通るような愛だけが、私を包み込んだ。
ドサリ、と重い音が響く。
それが自分の体の音だとは、もう認識できなかった。
一瞬の静寂の後、民衆の歓声が爆発する。
「正義」が執行されたのだと、誰もが叫んでいる。
「悪女が死んだ!」と、国中が喜びに沸いている。
広場を転がる首。
泥と血にまみれたその顔には、誰も見たことのないような、穏やかで、幸せそうな微笑みが浮かんでいた。
まるで、長い旅を終えて、ようやく愛する人の胸に帰れた少女のように。
こうしてシルヴィア・フォン・ローゼンの物語は、ここで幕を閉じる。
彼女が遺した傷跡は深く、国が癒えるには長い年月がかかるだろう。歴史書には、稀代の悪女としてその名を刻まれるだろう。
けれど、彼女の魂だけは、ようやく鳥籠から解き放たれ、自由の空へと羽ばたいていった。
空からは、冷たい雨が降り始めていた。
それはまるで、愚かな人間たちの罪を洗い流すかのように、あるいは、あまりにも悲しい恋人たちを弔うかのように。
静かに、静かに降り注いでいた。




