第37話 処刑前夜
重い鉄の扉が閉まり、鍵がかけられる音が、世界との断絶を告げる最後の音だった。
王都の地下牢。
かつて私がジェラルドを幽閉し、絶望の底へと突き落としたその場所に、今度は私自身が座り込んでいる。
湿った冷気。カビと錆の匂い。
足首に食い込む鉄枷の冷たさだけが、ここが現実であることを教えてくれる。
「……静かね」
私は壁に背を預け、膝を抱えた。
地上では、明日の処刑を待ちわびる民衆の熱気が渦巻いているはずだ。けれど、分厚い石壁に囲まれたこの場所には、何の音も届かない。
完全な静寂。完全な闇。
不思議と、怖くはなかった。
むしろ、安らいでいた。
もう、誰も殺さなくていい。誰も憎まなくていい。
「女王」として振る舞う必要も、「復讐者」として心を凍らせる必要もない。
ここには、私と――私の心の中にいるアレンだけ。
「……ふぅ」
長く、深い息を吐き出す。
その拍子に、張り詰めていた何かが、糸が切れるようにふつりと解けた。
ドクン、と心臓が鳴る。
途端に、視界が滲んだ。
「……あ……」
止めどない涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。
これまで「狂気」という仮面で蓋をしてきた感情が、奔流となって押し寄せてきた。
痛い。
胸が、張り裂けそうに痛い。
アレンが死んでから、私は一度だってまともに泣いていなかった。
泣けば、彼を失った事実を認めてしまうことになるから。
泣けば、私が壊れてしまうと分かっていたから。
だから私は怒りを選んだ。憎しみを選んだ。世界を呪うことで、自分を保とうとした。
でも、もう終わりだ。
明日、私は死ぬ。
もう、強がる必要なんてないんだ。
「う……うぅ……っ」
私は膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。
女王の威厳も、悪女のプライドも、すべてかなぐり捨てて。
ただの、恋人を失った一人の女として。
「アレン……アレン……」
名前を呼ぶだけで、喉が焼けるように熱い。
会いたい。
今すぐに会いたい。
あの温かい腕に抱きしめられたい。大きな手で頭を撫でてほしい。「大丈夫だ」って、優しく笑ってほしい。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
私たちは、ただ幸せになりたかっただけなのに。
辺境の小さな屋敷で、貧しくても、手を取り合って生きていきたかっただけなのに。
パンを焼いて、畑を耕して、夜は星を見上げて。
そんなささやかな願いさえ、許されなかった。
「私が……私が悪いの?」
暗闇に向かって問いかける。答えは返ってこない。
「私が、あなたを守れなかったから? 私が無力だったから? それとも……私たちが望んだ幸せが、身の丈に合わない贅沢だったの?」
違う。アレンならきっと、そう言ってくれる。
『君は悪くない』って。『運命が悪戯をしただけだ』って。
でも、結果はこれだ。
彼は死に、私は世界を壊し、そして殺される。
私たちの愛が残したものは、無数の死体と、荒廃した国だけ。
(ごめんなさい、アレン)
私は心の中で謝り続けた。
(あなたの理想を、守れなかった。あなたが愛した国を、血の海にしてしまった。あなたが生かしてくれたこの命を、復讐のためだけに使い潰してしまった)
あの日、馬車の中であなたが遺した「生きて」という言葉。
あれは、こんな形での生を望んだものじゃなかったはずだ。
あなたは私に、笑っていてほしかったはずだ。幸せになってほしかったはずだ。
分かっていた。
最初から、分かっていたのよ。
私がやっていることが、あなたを悲しませることだって。
でも、止められなかった。
あなたを失った痛みが、あまりにも大きすぎて。その痛みを麻痺させるためには、他人の血を流すしかなかった。世界中を敵に回して、自分自身を傷つけ続けなければ、息をすることさえできなかった。
「……弱虫ね、私」
自嘲の笑みが漏れる。
救国の聖女? 鉄の女?
いいえ、中身はただの、一人じゃ何もできない泣き虫な子供よ。
あなたがいないと、何一つ正しく選べなかった。
ガルドやミアの顔が浮かぶ。
彼らは最後まで、私を止めようとしてくれた。私を「人間」に戻そうとしてくれた。
けれど私は、彼らを拒絶した。彼らの優しさが、直視したくない現実――アレンの死――を突きつけてくるようで、怖かったから。
「ごめんね、みんな……」
今さら謝っても遅い。
私は彼らを裏切り、傷つけた。もう二度と、あの温かい食卓を囲むことはできない。
ふと、鉄格子のはまった高い窓を見上げた。
小さな四角い夜空。星は見えない。
けれど、あの日――プロポーズされた夜に見た、満天の星空を思い出すことはできた。
シロツメクサの指輪。
土の匂い。
重なり合った唇の熱さ。
『一生、君を守るよ』という、震えるような誓いの言葉。
あの瞬間だけは、確かに永遠だった。
あの記憶さえあれば、私は地獄の業火の中でも笑っていられる。
「……ねえ、アレン」
私は壁の染みに向かって、語りかけた。
幻覚ではない。心の中にいる彼に。
「怖いわ」
素直な本音がこぼれた。
「死ぬことは怖くないの。……ただ、あなたに会えるかどうかが、怖いの」
「私はこんなに手を汚してしまった。何千人も殺して、国を滅茶苦茶にして……そんな私が、あなたのいる場所へ行けるのかしら」
あなたは光の中にいるでしょう?
英雄として、清らかな魂として、天国で笑っているでしょう?
でも私は、地獄行きが決まっている大罪人。
死んだ後も、私たちは離れ離れなのかしら。
そう思うと、恐怖で震えが止まらなくなった。
死ぬことよりも、消えることよりも。
二度と彼に会えないことだけが、何より恐ろしい。
「会いたい……。アレン、会いたいよぉ……ッ」
私は冷たい床に額を擦り付け、懇願した。
「神様なんて信じないけれど、もしいるなら……お願い。罰ならいくらでも受けます。魂が引き裂かれるような苦しみでもいい。業火に焼かれてもいい」
爪が剥がれるほど床を掻きむしる。
「ただ一目だけ、彼に会わせてください。……謝らせて。そして、もう一度だけ『愛してる』って言わせて……」
涙が床に水溜まりを作る。
夜は深く、静かで、私の嘆きだけを吸い込んでいく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
格子の向こうが、微かに白み始めていた。
夜明けだ。
私の人生、最後の朝が来る。
カツ、カツ、カツ……。
回廊の奥から、足音が近づいてくる。
迎えが来たのだ。
私は涙を拭い、乱れた髪を手櫛で整えた。
ドレスの埃を払い、背筋を伸ばす。
最期くらい、彼の妻として恥ずかしくない姿でいたい。
かつて彼が愛してくれた、気高い「シルヴィア」として。
ガチャリ、と鍵が開く音。
重い扉が開き、執行官と兵士たちが姿を現す。
彼らは私を見て、一瞬ひるんだように見えた。
昨夜までの狂気に満ちた「暴君」ではなく、憑き物が落ちたような、静謐な空気を纏った女性がそこにいたからかもしれない。
「……時間だ」
「ええ。分かっているわ」
私は自ら立ち上がり、歩き出した。
足取りは軽い。
もう、迷いはない。
アレン。
私は行くわ。
あなたが守ろうとした世界を壊してしまった罪を、この命で償ってくる。
もし、許されるなら。
道の果てで、待っていてほしい。
泥だらけでも、血まみれでもいいから。
あなたのその手で、もう一度私を抱きしめて。
「……行きましょう」
私は兵士たちに囲まれ、地下牢を後にした。
階段を上るたびに、地上の喧騒が近づいてくる。
罵声と、怒号と、殺気。
それが私に向けられた最後の手向けだ。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、胸のポケットには、あの日アレンと交換した「お守り」が入っている。
ボロボロになった刺繍の布切れ。
それだけが、私の唯一の味方。
さあ、幕引きの時間だ。
私、シルヴィア・フォン・ローゼンの、最後の舞台へ。




