第35話 捕縛
熱い。
肌を焦がすような熱気が、全身を包んでいる。
王宮は今、巨大な火葬場と化していた。
「歩け! もたもたするな!」
背後から怒号が飛び、背中を荒っぽく小突かれる。
私はよろめきながら、瓦礫の散乱する廊下を一歩ずつ踏みしめた。
両手は後ろ手に縛られ、粗い縄が手首の皮膚を食い破って血が滲んでいる。足首には重い鉄の枷。
かつて、この国で最も尊いとされた「最高指導者」の姿は、どこにもなかった。
廊下の壁には、かつて歴代の王族の肖像画が飾られていたはずだ。
今はそれらも燃え落ち、黒い煤となって床にへばりついている。
天井が崩れ、シャンデリアの残骸が道を塞ぐ。
「……酷い有様だな」
私の腕を引いているガルドが、苦々しげに呻いた。
彼の顔は煤と返り血で汚れ、その瞳には深い悲しみが宿っている。
この王宮は、私たちがジェラルドから奪い取り、アレンと共に新しい国を作ろうと誓った場所だった。
それを、私自身が焼いたのだ。
「……綺麗でしょう?」
私は渇いた唇を開き、掠れた声で呟いた。
「全部、灰になるわ。アレンがいない世界なんて、こんなふうに燃えてしまえばいいのよ」
「黙れッ!!」
ガルドが叫び、私の腕を強く引いた。痛みが走るが、私は眉一つ動かさなかった。
痛み?
そんなもの、アレンを失った瞬間の胸の痛みに比べれば、羽毛で撫でられるようなものだ。
「これ以上、アレン様を侮辱するな……! あの方は、こんな破壊を望んでいなかった!」
「そうね。彼は優しかったもの」
私は虚ろな目で、燃え盛る炎を見つめた。
「だから死んだのよ。……優しさなんて、弱さの別名でしかないわ」
ガルドは何かを言いかけ、悔しげに唇を噛んで押し黙った。
これ以上、言葉を交わしても無駄だと悟ったのだろう。
私たちはもう、言葉が通じる世界にはいない。
長い回廊を抜け、ついに王宮の正面玄関へと辿り着いた。
巨大な扉が、ひしゃげて開いている。
その向こうには、夜の闇と、それを赤く染める王都の火災、そして――。
ウオオオオオオオオッ!!
地響きのような唸り声が、熱風と共に押し寄せてきた。
「……来たぞ」
「シルヴィアを引きずり出したぞ!」
王宮前広場を埋め尽くす、数万の民衆。
彼らは手に手に松明や農具、石塊を持ち、獣のような目でこちらを睨みつけていた。
かつて、私とアレンがバルコニーから手を振り、祝福を受けたあの広場。
今は、憎悪の坩堝と化している。
「殺せ! あの女を殺せ!」
「俺の息子を返せ! 人殺し!」
「魔女め! 地獄へ堕ちろ!」
罵声の嵐。
彼らの目は血走り、口元からは泡が飛んでいる。
人間ではない。憎しみに憑かれた悪鬼の群れだ。
そして、その悪鬼を生み出したのは、紛れもなく私自身だった。
「……総員、防御態勢! 被疑者を殺させるな! 裁判にかけるまで守り抜け!」
ガルドが大声で指示を飛ばす。
反乱軍の兵士たちが盾を構え、私の周りに壁を作る。
彼らだって、本音では私を殺したいはずだ。仲間を殺され、家族を奪われた恨みがある。
それでも、アレンの掲げた「法と正義」を守るために、必死で理性を保ち、私を守ろうとしている。
なんて滑稽で、なんて哀れな人たち。
「進むぞ!」
ガルドに背中を押され、私は広場へと足を踏み出した。
その瞬間。
ガッ!
硬い何かが、私の額に直撃した。
石だ。
目の前がチカチカと明滅し、温かい液体が顔を伝って流れ落ちる。
血が目に入り、視界が赤く染まる。
「ああっ! シルヴィア様!」
ミアが悲鳴を上げ、私の前に飛び出してハンカチを当てようとする。
だが、石礫の雨は止まない。
腐った野菜、泥の塊、ガラスの破片。
ありとあらゆる汚物が、私に向かって投げつけられる。
「どけミア! お前まで怪我をするぞ!」
ガルドがミアを引き剥がし、盾で私を庇う。
ガン、ガン、と盾が鈍い音を立てる。
「痛い目を見せてやれ!」
「俺たちの痛みに比べれば、石ころなんて優しすぎるくらいだ!」
民衆が押し寄せてくる。
警備の兵士たちが必死で押し留めるが、殺意の奔流は堤防を決壊させんばかりの勢いだ。
私は、額から流れる血を拭おうともせず、ただぼんやりとその光景を見ていた。
(……ああ。アレン)
心の中で、亡き恋人に語りかける。
(覚えている? あの日、私たちはここで祝福されたわね。花びらが舞って、みんなが笑って……世界で一番幸せだった)
今は、石が舞い、みんなが鬼の形相で叫んでいる。
同じ場所。同じ人々。
たった一つ違うのは、あなたがいないこと。
それだけで、世界は天国から地獄へと反転した。
「……ふふ」
笑いが込み上げてきた。
おかしい。何もかもがおかしい。
アレンが命を懸けて守った民衆が、今は野獣のように吠え猛り、人を殺そうとしている。
私が守ろうとした「アレンの国」は、こんなにも醜く歪んでしまった。
「なに笑ってやがる! 反省もしねえのか!」
近くにいた男が、兵士の隙間から手を伸ばし、私の髪を掴んだ。
ブチリ、と嫌な音がして、銀色の髪が引きちぎられる。
「痛っ……」
「ざまあみろ! お前なんか、こうしてやる!」
男は私の頬を殴りつけた。
衝撃でよろめき、地面に倒れ込む。
泥の味。血の味。
ドレスが汚れ、肌が擦りむける。
「やめろ! 下がりやがれ!」
ガルドが男を突き飛ばし、私を乱暴に引き起こす。
「立て! こんなところで死なせるわけにはいかねえんだよ!」
彼は私を助けたいわけじゃない。
私を法廷に引きずり出し、晒し者にして、正義の名の下に処刑するためだ。
それが彼らの「革命」の仕上げなのだから。
私はよろよろと立ち上がった。
体中が痛い。熱い。
けれど、心臓のあたりだけが、氷のように冷たい。
私は民衆を見渡した。
数千の殺意。数千の憎悪。
かつて私に向けられていた愛や尊敬は、きれいさっぱり消え失せている。
(いいわ。……それでいい)
私は思った。
私を憎みなさい。私を呪いなさい。
あなたたちのその醜い感情こそが、私がこの世界を壊した証。
アレンを奪った世界に対する、復讐の完了証明書だ。
「……行くわよ、ガルド」
私は血に濡れた唇で言った。
「連れて行きなさい。牢獄でも、処刑台でも、どこでもいいわ。……どうせ私には、帰る場所なんてないんだから」
ガルドは痛ましげに顔を歪め、無言で私の背中を押した。
護送用の馬車――いや、罪人を運ぶための鉄格子のついた荷車が待っていた。
私は家畜のようにそこへ押し込められる。
鉄格子越しに見える王都の空は、燃え上がる炎と黒煙で、血のように赤く染まっていた。
馬車が動き出す。
石が投げつけられる音。罵声。
それらは遠ざかるにつれて、耳鳴りのようなノイズへと変わっていく。
私は荷車の隅で膝を抱えた。
目を閉じると、瞼の裏に、あの日の青空が浮かんだ。
隣で笑うアレン。
優しく頭を撫でてくれる大きな手。
『大丈夫だ、シルヴィア。俺が守るよ』
幻聴が聞こえる。
優しくて、残酷な嘘。
「……アレン」
私は小さく呟いた。
「早く……早く、迎えに来て」
もう、疲れ果ててしまった。
復讐も、憎悪も、すべてが虚しい。
私はただ、あなたの元へ行きたいだけなのに。
どうして死ぬことさえ、こんなに難しいの?
馬車はガタゴトと揺れながら、闇の中へと進んでいく。
「救国の聖女」と呼ばれた女は、今夜、「国を滅ぼした魔女」として、冷たい地下牢へと堕ちていく。
その心には、後悔も希望もなく。
ただ、愛する人を失った空洞だけが、冷たい風を響かせていた。




