第34話 玉座の間の再会
ドォォォォン……!
腹の底に響くような轟音と共に、王宮の天井の一部が崩落した。
舞い上がる火の粉と黒煙。
かつて栄華を誇った白亜の城は、今や紅蓮の炎に包まれ、巨大な松明のように燃え上がっていた。
「急げ! 火が回るぞ!」
「シルヴィアを確保するんだ! 逃がすな!」
反乱軍の兵士たちが、ハンカチで口元を覆いながら回廊を駆ける。
その先頭を行くのは、巨躯の戦士ガルドと、煤まみれになった小柄な女性、ミアだ。
ガルドの大剣が、立ちふさがる近衛兵の剣を弾き飛ばす。
かつての部下たちだ。知った顔もいる。
だが、彼らの目は死んでいた。ただ命令に従って動く人形のように、感情のない瞳で斬りかかってくる。
「……どけぇッ! 俺は、あの方を止めなきゃなんねえんだよ!」
ガルドは峰打ちで彼らを気絶させ、突き進む。
殺したくない。これ以上、かつての仲間を、この国の人間を殺したくない。
その一心で、彼は炎の中をひた走った。
「ガルドさん、あそこです! あの大扉の向こうが……!」
ミアが指差した先。
黄金の装飾が施された、巨大な両開きの扉。
かつて、アレンとシルヴィアがジェラルドを倒し、勝利を掴み取った「玉座の間」だ。
扉の前には、誰もいなかった。
守るべき近衛兵も、逃げ惑う侍従もいない。
ただ、内側から漏れ出る異様なほどの静寂が、炎の音さえも拒絶しているように感じられた。
「……行くぞ」
ガルドは覚悟を決め、扉に手をかけた。
重い扉が、軋んだ音を立てて開かれる。
熱気が吹き荒れるかと思った。
だが、そこにあったのは、冷え冷えとした静けさだった。
広い空間。
高い天井からはシャンデリアが落ちて砕け散り、真紅の絨毯は煤と埃で黒ずんでいる。
ステンドグラスは割れ、そこから入り込む夜風が、吹き抜ける炎を揺らしていた。
そして、その一番奥。
一段高い場所に設えられた玉座に、ひとつの影があった。
「……ようこそ。随分と早かったわね」
澄んだ声が、虚空に響く。
そこにいたのは、漆黒のドレスを纏ったシルヴィアだった。
かつてのような煌びやかな装飾品はない。喪服のような黒一色のドレス。
銀色の髪は無造作に下ろされ、蒼白な肌との対比が、彼女をこの世ならざる者のように見せていた。
彼女は玉座に深く腰掛け、退屈そうに頬杖をついていた。
右手に持ったワイングラスには、血のように赤い液体が揺れている。
「シルヴィア……様……」
ミアが、掠れた声で呼んだ。
その場に崩れ落ちそうになるのを、ガルドが支える。
変わり果てた姿。
いや、姿形は美しいままだ。かつての「聖女」と呼ばれた頃よりも、さらに研ぎ澄まされた美貌がある。
だが、その瞳には光がなかった。
かつてアレンを見つめていた時の、あの温かく、慈愛に満ちた光はどこにもない。
あるのは、底なしの虚無と、冷徹な狂気だけ。
「……どうしたの? そんなに怖い顔をして」
シルヴィアは、くすりと笑った。
それは、王都を焼き払った張本人とは思えないほど、無邪気で、そして空虚な笑みだった。
「私を殺しに来たんでしょう? 反乱軍の英雄さんたち」
ガルドが一歩、前に出た。
握りしめた拳が震えている。怒りではない。どうしようもない悲しみが、彼を震わせていた。
「……どうしてですか、シルヴィア様」
ガルドの声が、広間に重く響く。
「どうして、こんなことをしたんですか! 王都を焼いて、民を殺して……! これが、アレン様が守ろうとした国ですか! これが、あの方が命を懸けて託した未来なんですかッ!」
魂からの叫び。
だが、シルヴィアの表情はピクリとも動かなかった。
彼女はグラスを傾け、一口含んでから、つまらなそうに答えた。
「アレンがいない世界に、守る価値なんてあるのかしら?」
「なっ……!?」
「この国は、アレンを殺したわ。私の太陽を、私の命を、私のすべてを奪った。……そんな薄汚れた世界が、のうのうと明日を迎えるなんて、許せるわけがないでしょう?」
彼女は立ち上がり、窓の外を指差した。
燃え盛る王都。逃げ惑う人々の悲鳴。
地獄のような光景を前にして、彼女はうっとりと目を細めた。
「見て。……綺麗でしょう? 炎が、すべての罪を浄化していくわ。裏切りも、嘘も、アレンを苦しめたしがらみも、全部灰になるの」
「狂ってる……!」
ガルドが呻く。
「そんな理由で、何万もの人を巻き込んだのか! アレン様がそんなことを望むはずがねえ! あの方は、誰よりも民の幸せを願っていた!」
「そうね。彼は優しかったわ」
シルヴィアは寂しげに微笑んだ。
「だから、死んだのよ」
その言葉は、氷の刃のように鋭く、ガルドたちの心臓を貫いた。
「優しさだけじゃ、何も守れない。正しさだけじゃ、悪意には勝てない。……彼が証明してくれたじゃない。だから私は、魔女になったの。彼の愛した国を、彼がいない地獄から救ってあげるために」
彼女の論理は破綻している。
けれど、その狂気じみた信念は、あまりにも純粋で、強固だった。
誰も、彼女を説得することはできない。言葉はもう、彼女には届かない。
「シルヴィア様……!」
ミアが泣きながら駆け寄ろうとする。
「戻ってください! 昔の、優しいシルヴィア様に! 私たちと一緒に、もう一度やり直しましょう! アレン様だって、きっとそれを……!」
「触らないで」
シルヴィアの冷徹な声に、ミアの足が止まる。
彼女は、誰もいないはずの空間――玉座の隣に、愛おしげに視線を向けた。
「ねえ、アレン。……うるさいわね、この子たち」
ガルドとミアが、息を呑む。
そこには誰もいない。ただの空気が揺れているだけだ。
だが、シルヴィアには見えているのだ。彼女だけの「アレン」が。
「ええ、わかってるわ。もう十分よね。……私たちの邪魔をするなら、消えてもらいましょう」
彼女は一人で頷き、そして再び私たちに向き直った。
その瞳から、一切の感情が消え失せる。
「残念だわ、ガルド、ミア。あなたたちは最後まで、こちらの世界には来られなかったのね」
彼女は、懐から小瓶を取り出した。
毒薬だ。自決用の。
それを口に運ぼうとする彼女を見て、ガルドが叫んだ。
「させるかァッ!!」
ガルドが地面を蹴る。
人間離れした速度で距離を詰め、シルヴィアの手から小瓶を叩き落とした。
パリンッ!
ガラスが砕け、無色透明な液体が床に広がる。
「……乱暴ね」
シルヴィアは、驚く様子もなく呟いた。抵抗もしない。
彼女は最初から、戦うつもりなどなかったのだ。
毒をあおって死ぬか、殺されるか。どちらでもよかったのだ。
「捕縛しろ! ……絶対に死なせるな!」
ガルドの合図で、後ろに控えていた反乱軍の兵士たちが駆け寄ってくる。
彼らはシルヴィアの腕を取り、後ろ手に拘束した。
かつての女王。独裁者。
彼女はされるがままに、人形のように大人しく縛り上げられた。
「……遅かったわね」
シルヴィアが、ポツリと言った。
「もう少し早く来てくれれば、もっと楽に死ねたかもしれないのに」
その言葉に込められた深い絶望に、ガルドは何も言い返すことができなかった。
彼女を縛る縄の感触は、どんな強敵と戦った時よりも重く、冷たかった。
「連れて行け。……火が回る前に」
ガルドは顔を背け、兵士たちに指示を出した。
ミアは、拘束されたシルヴィアの姿を見て、その場に泣き崩れていた。
シルヴィアは連行されながら、一度だけ振り返った。
燃え盛る玉座の間。
誰もいないその空間に向かって、彼女は優しく微笑みかけた。
「……待っていてね、アレン。すぐに行くから」
そうして、彼女は炎の中に消えていった。
残されたのは、かつて英雄と聖女が愛を誓った、焼け落ちた玉座だけ。
革命は終わった。
独裁者は倒され、民衆は勝利した。
けれど、誰一人として笑ってはいなかった。
王宮を包む炎の色は、勝利の凱歌ではなく、ただ虚しい弔いの灯火のように揺らめいていた。




