第32話 民衆の蜂起
王都の下層街。
迷路のように入り組んだ路地の奥、かつては地下水路の点検用通路だった場所が、今の「反乱軍」の拠点となっていた。
湿った空気と、松明の煤けた匂い。
そこに集まっているのは、百人ほどの男たちと女たちだ。
着ているものはボロボロで、顔色は悪く、誰もが飢えと疲労で痩せこけている。
だが、その瞳だけは、暗闇の中で獣のように鋭く光っていた。
「……みんな、準備はいいか」
低い声が、地下室に響く。
ドラム缶の上に立ち、集まった人々を見下ろしているのは、かつての近衛騎士団長、ガルドだ。
彼の鎧は傷だらけで、マントは泥にまみれている。かつての威光はない。だが、その巨体から放たれる圧倒的な闘気は、以前よりも増していた。
「俺たちは今日、死ぬかもしれない。いや、十中八九、死ぬだろう」
ガルドは隠そうともせずに言った。
相手は、国家権力を完全に掌握したシルヴィアの軍勢だ。装備も数も、桁が違う。
だが、誰も目を逸らさなかった。
「かまわねえよ、ガルドさん」
最前列にいた若者が、錆びついた剣を握りしめて言った。
「どのみち、このままじゃ餓死するか、難癖つけられて処刑されるかだ。……座って死ぬのを待つくらいなら、一矢報いて死にたい」
「そうだ! 俺の家族は、何もしてないのに連れて行かれた!」
「あいつは悪魔だ! 聖女なんかじゃない!」
口々に上がる怨嗟の声。
ガルドは痛ましげに顔を歪め、隣に立つミアを見た。
ミアは、かつての侍女服ではなく、動きやすい男物の服を着ていた。
トレードマークだったお下げ髪を切り落とし、短くなった髪が汗で頬に張り付いている。
彼女の手には、ボロボロになった布切れが握りしめられていた。
「……あの日、アレン様は言いました」
ミアが震える声で語りかけると、ざわめきが静まった。
「『俺たちは人間だ。家畜じゃない。自分の大切なものを守る権利がある』って。……今のこの国に、その権利はありますか?」
誰もが首を横に振る。
密告に怯え、隣人を疑い、今日を生き延びることだけに汲々とする日々。それは、家畜以下の生活だ。
「私は、シルヴィア様が大好きでした。優しくて、強くて、誰よりもアレン様を愛していたあの方が」
ミアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「でも、今のあの方は違います。アレン様の名前を使って、アレン様が愛した人々を傷つけている。……そんなの、絶対に間違っています!」
彼女は、握りしめていた布を広げた。
それは、つぎはぎだらけで作られた、一枚の旗だった。
泥と血で汚れているが、そこに刺繍されている紋章は、はっきりと見て取れた。
雪原に咲く、一輪の白い花。
かつて辺境で掲げられた、ウィンスレット家の紋章。
そして、革命の象徴だった旗だ。
「俺たちが掲げるのは、これだ」
ガルドが旗を受け取り、高々と掲げた。
「今の政府が掲げている『正義』は偽物だ! 本物のアレン様は、民を殺したりしねえ! 民と共に笑い、民と共に泣くのが、俺たちの知ってるアレン様だ!」
オオオオッ……!
地下室の空気が震える。
「奪い返すぞ! 俺たちの国を! 俺たちの誇りを! そして……俺たちのアレン様を!」
「おうっ!!」
それは、悲壮な決意の叫びだった。
勝算などない。あるのは、これ以上尊厳を踏みにじられたくないという、人間としての最後の意地だけ。
「行くぞ! 目標は中央広場! 捕らえられた仲間を奪還し、狼煙を上げる!」
ガルドが先頭を切って走り出す。
地下通路を抜け、地上へと続く階段を駆け上がる。
重い鉄の蓋を押し開けると、そこには鉛色の空と、冷たい雨が待っていた。
だが、彼らの心に灯った火は、雨ごときでは消えなかった。
「かかれぇぇぇぇッ!!」
王都の一角で、爆発音と共に反乱の火蓋が切って落とされた。
***
その頃。
王宮の最奥にある執務室は、死んだような静寂に包まれていた。
私は、窓辺に置かれた椅子に深く腰掛け、外の雨を眺めていた。
手元には、最高級のワイン。
部屋の隅には、山積みになった処刑リスト。
「……静かね、アレン」
私は、誰もいない空間に話しかけた。
そこには、いつものように彼が立っている。
雨に濡れた窓ガラスに映る私の顔は酷くやつれていたが、幻覚の彼だけは、あの日と変わらない若々しい姿で微笑んでいる。
『ああ。君が頑張ってくれたおかげだよ』
「そうよね。……うるさいハエたちは、だいぶ片付いたわ」
私はワインを一口飲んだ。
味はしなかった。最近は、何を食べても砂を噛んでいるようだ。
けれど、それでいい。アレンがいない世界で、美味しいものなんてあるはずがないのだから。
「でも、まだ足りない気がするの。……私の心の中のモヤモヤが、消えないのよ」
『心配しなくていいよ。俺はずっとそばにいる』
「ええ。……愛しているわ、アレン」
私が虚空に手を伸ばそうとした、その時だった。
ドンドンドン!!
粗暴なノックの音が、静寂を打ち破った。
「誰よ。……許可なく近づくなと言ったはずでしょう」
不機嫌に声を上げると、扉が開き、顔面蒼白の秘書官が転がり込んできた。
「か、閣下! 大変です! 緊急事態が!」
「騒々しいわね。……どうせまた、どこかの貧民がパンを盗んだとか、そんな話でしょう? 処刑しておきなさい」
「ち、違います! 暴動です! 下層街で大規模な武装蜂起が発生しました!」
私は眉をひそめた。
暴動? 今更?
私の恐怖政治は完璧なはずだ。密告制度のおかげで、隣人さえ信じられない民衆が、徒党を組むなど不可能なはずなのに。
「規模は?」
「す、数千……いえ、もっと増えているかもしれません! 市民たちが次々と合流し、中央広場の断頭台を占拠! 警備隊が押されています!」
数千。
予想外の数字に、私はグラスを置いた。
どこの誰が、それだけの人間を扇動したというの?
旧貴族派は全滅させた。有力な商人も拘束した。リーダーになれる人間など、もうこの国には……。
「……指揮官は誰?」
私の問いに、秘書官は言い淀んだ。
まるで、口にするのも恐ろしい言葉を告げるかのように、唇を震わせている。
「そ、それが……。元近衛騎士団長のガルド・マクドガルと、元筆頭侍女のミアです」
「……なんですって?」
懐かしい名前。
かつて私を「家族」と呼び、最後には私を拒絶して去っていった裏切り者たち。
「あいつらが……。まだ生きていて、私に刃を向けるというの?」
怒りよりも先に、呆れが湧いてきた。
馬鹿な人たち。
せっかく見逃してやったのに、わざわざ死にに戻ってくるなんて。
「さらに……報告には続きがあります」
「何よ」
「反乱軍が掲げている旗……。それが……」
秘書官は、決死の覚悟で言葉を絞り出した。
「『雪原の花』……アレン・ウィンスレット様の紋章旗です」
――パリン。
乾いた音がして、私の手からワイングラスが滑り落ちた。
赤い液体が、絨毯に染み込んでいく。
思考が、停止した。
今、コイツはなんと言った?
アレンの紋章?
私のアレンの?
「……嘘をおっしゃい」
「ほ、本当です! 彼らは『アレン様の理想を取り戻せ』『偽りの女王を倒せ』と叫んで……!」
ギリッ、と奥歯が鳴った。
体中の血液が沸騰するような、凄まじい熱が駆け巡る。
許せない。
許せない許せない許せない許せない!
あいつらが。
私を置いて逃げ出した臆病者たちが。
アレンの名前を語るだと?
アレンの紋章を、その汚らわしい手で掲げただと?
「……ふざけるなッ!!」
私は叫び、机の上のものを全て薙ぎ払った。
インク壺が飛び、書類が舞い散る。
「アレンは私のものよ! 私だけのものよ! あいつらが触れていい名前じゃない! ましてや、私に弓引くためにその名を使うなんて……万死に値するわ!!」
呼吸が荒くなる。視界が赤く明滅する。
これは、ただの反乱ではない。
私とアレンの聖域に対する、許されざる冒涜だ。
「閣下、ご指示を……!」
「焼き払いなさい」
私は、地獄の底から響くような低い声で命じた。
「近衛師団、および王都防衛軍の全戦力を投入しなさい。市民だろうが何だろうが関係ない。あの旗を掲げている者は、一人残らず殺しなさい」
私は窓辺に歩み寄り、雨に煙る王都を見下ろした。
遠くの方で、黒い煙が上がっているのが見える。
あそこに、ガルドたちがいる。アレンの名を汚す、泥棒猫たちがいる。
「市街地が火の海になっても構わない。……私の大事なアレンを奪おうとする泥棒は、灰になるまで焼き尽くしてやる」
私の隣で、幻覚のアレンが悲しげに首を振っているのが見えた気がした。
でも、今の私にはそれすらも目に入らなかった。
私の心を支配しているのは、愛する人を独占したいという歪んだ執着と、それを侵す者への底なしの殺意だけだった。
「行くわよ。……私が直接、引導を渡してあげる」
私はドレスの裾を翻し、部屋を出た。
その背中には、もはや一片の慈悲も残っていなかった。
ただ、漆黒の狂気だけを纏って、女王は最後の戦場へと向かう。




