第31話 孤立する女王
重厚な扉が閉まる音が、永遠の別れを告げる鐘のように響いた。
ガルドとミアが出て行ったあとの執務室は、鼓膜が痛くなるほどの静寂に満ちていた。
テーブルの上には、ミアが置いていったティーカップが残されている。
湯気はもう消えていた。かつてのような温かい香りはなく、冷え切った液体が淀んでいるだけだ。
「……行ってしまったわ」
私は椅子に深く体を沈め、天井を見上げた。
胸に去来するのは、喪失感だろうか? それとも、邪魔者がいなくなった安堵感だろうか?
自分でも判然としなかった。ただ、心臓のあたりが寒くて、虚しい。
ふと、視界の端で影が動いた。
窓辺に、アレンが立っていた。
月光を浴びた彼は、いつものように優しく微笑んでいる。
『気にすることはないよ、シルヴィア』
幻影のアレンが、私の肩に手を置くような仕草をする。
温もりは感じない。けれど、その言葉だけが今の私を支える唯一の柱だった。
『彼らは弱かったんだ。君が背負っているものの重さを、理解できなかっただけさ。……君は間違っていない』
「ええ……そうよね、アレン」
私は彼の手(だと思われる空間)に、自分の頬を寄せた。
「私は、この国を守らなきゃいけない。あなたが命を懸けて手に入れた『自由』を、誰にも奪わせないために。そのためには、甘えや迷いは邪魔なだけだもの」
私は立ち上がった。
冷めた紅茶を一気に飲み干す。苦い味が、喉を焼く。
これでいい。もう、私を諫める者はいない。私を「可哀想な未亡人」扱いする者もいない。
私は、真の意味で一人になった。
そして、この国もまた、私一人のものになる。
***
翌日。王宮の大広間には、数百名の議員や官僚、軍の高官たちが集められていた。
かつてジェラルド王太子が座っていた玉座は撤去され、代わりに簡素だが威圧感のある黒檀の椅子が置かれている。
広間の空気は張り詰めていた。誰もが顔を伏せ、咳払いひとつすることさえ憚られるような緊張感。
扉が開き、私が姿を現すと、全員が一斉に起立し、深く頭を垂れた。
私は黒いドレスの裾を引きずり、壇上へと歩みを進める。
かつてのような、民衆の歓声はない。あるのは、服従を示す沈黙と、隠しきれない恐怖の匂いだけ。
私は黒檀の椅子に座り、彼らを見下ろした。
「皆、よく集まってくれました」
私の声が、静まり返った広間に響く。
「本日、ここに宣言します。現行の『臨時評議会』を解体し、国家の全権限を私、シルヴィア・フォン・ローゼンに集中させる『国家非常事態体制』へと移行することを」
ざわめきすら起きなかった。
誰もが、こうなることを予期していたのだ。あるいは、異を唱えればその場で処刑されることを理解していたのだ。
「革命以降、旧貴族派の残党や、無知な暴徒によるテロが後を絶ちません。議論や手続きに時間を浪費している余裕は、もはや我が国にはないのです」
私は淡々と、用意していた言葉を並べる。
「よって私は、この国の『最高指導者』に就任します。立法、行政、司法、そして軍事。すべての決定権は私が持ちます。……異論のある者は?」
私は会場を見渡した。
目を合わせた者は、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がり、必死に首を横に振る。
かつて「共和制こそが理想だ」と熱く語っていた議員たちも、今や保身のために沈黙を守るだけの案山子に成り下がっていた。
皮肉なものだ。
私たちは、独裁者ジェラルドを倒すために立ち上がったはずだった。
王政を廃止し、誰もが平等な世界を作るために戦ったはずだった。
それなのに今、私はジェラルド以上の権力を握り、彼以上の恐怖で人々を支配しようとしている。
(でも、仕方ないじゃない)
心の中で、言い訳がこだまする。
民主的な議論? 多数決?
そんな悠長なことをしていたら、アレンを殺したような悪意がまた忍び寄ってくる。
私が全てを管理し、私が全てを監視しなければ、この国は守れない。
「異論なし、と認めます」
私は手元の書類にサインをした。
ペン先が紙を走る音が、民主主義の断末魔のように聞こえた。
「では、ただちに業務に戻りなさい。……ああ、それと」
私は去りゆく彼らの背中に、冷たい言葉を投げかけた。
「近衛騎士団の再編を行います。隊長だったガルド・マクドガルは解任。本日付で指名手配とします。見つけ次第、拘束しなさい」
会場に戦慄が走る。
革命の英雄の一人であるガルドまでもが、敵とみなされたのだ。もはや、安全な場所にいる人間など一人もいない。
彼らは青ざめた顔で「は、はいっ!」と叫び、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
広間に、私だけが残された。
広すぎる空間。高すぎる天井。
かつてアレンと並んで民衆に手を振ったバルコニーへの扉は、固く閉ざされている。
「……ふふ」
乾いた笑いが漏れた。
最高指導者。事実上の女王。
すべてを手に入れたはずなのに、手のひらには何もない。砂のように虚無がこぼれ落ちていくだけだ。
私は誰もいない空間に向かって、話しかけた。
「見た? アレン。私が、この国の王になったわ」
幻覚のアレンが、玉座の脇に立っている。
彼は優しげに、けれどどこか悲しげに微笑んでいた。
『すごいね、シルヴィア。君ならできると思っていたよ』
「ええ。これで、もう誰も私を邪魔できない。あなたの理想を汚すような真似はさせない」
私は椅子に深くもたれかかった。
王冠はない。杖もない。
けれど、私は確かに「孤立する女王」だった。
愛も、友情も、信頼も切り捨てて、ただ力と恐怖だけで玉座に座る、悲しき女王。
***
それからの日々は、狂気じみていた。
私は執務室に籠もり、寝る間も惜しんで書類に目を通し続けた。
密告によって寄せられる「反逆者リスト」の確認。
処刑命令書へのサイン。
治安維持部隊への指示。
街からは笑い声が消えた。
酒場での会話は密告を恐れて止まり、市場では人々が俯いて足早に通り過ぎる。
私の名前を聞くだけで、子供が泣き止むという噂まで流れていた。
ある深夜。
疲れた目を擦りながら、私はふとペンを止めた。
「……ねえ、アレン」
『なんだい?』
机の向こうに座るアレンの幻影に問う。
最近、彼の姿は以前よりはっきりと見えるようになっていた。まるで、私の正気が削り取られるのと反比例するように、幻覚の解像度が上がっていくようだった。
「私、間違っていないわよね?」
『もちろんだよ。君は俺のために頑張ってくれている』
「そうよね。……みんなが私を恐れているわ。『悪女』だとか『暴君』だとか呼んでいる」
私は自嘲気味に笑った。
「かつては『聖女』なんて呼ばれていたのに。滑稽な話だわ」
『君は優しいから、心を痛めているんだね』
アレンが立ち上がり、私の後ろに回って、肩を抱くような感触を与えてくれる。
『でも、忘れないで。優しさだけじゃ、何も守れない。俺が死んだのがその証拠だ。……君は、強くならなきゃいけないんだ』
「……うん。わかってる」
私は、また一枚の命令書にサインをした。
それは、かつて私たちを支援してくれた商人の一族を、「価格操作の疑い」で拘束する命令だった。彼らが本当に不正をしたのか、それとも単なる濡れ衣なのか、調べる気にもならなかった。
疑わしきは罰せよ。
それが、この国の新しい法なのだから。
「もっと……もっと掃除しなきゃ。この国は汚れているわ」
私の瞳が、爛々と輝き始める。
アレンを殺した「悪意」。それがどこに潜んでいるか分からない。
隣人かもしれない。部下かもしれない。
だったら、全員消してしまえばいい。そうすれば、アレンが眠るこの土地は、永遠に清らかな場所になる。
狂気が、使命感という仮面を被って私を蝕んでいく。
その頃。
王都の地下水路、あるいはスラムの片隅で。
小さな火花が散り始めていたことになど、私は気づこうともしなかった。
追放されたガルドたちが、生き残った同志を集めていること。
圧政に耐えかねた市民たちが、鍬やハンマーを握りしめ、密かに集会を開いていること。
そして彼らが掲げる旗印が、皮肉にも「アレン・ウィンスレットの紋章」であることに。
私が「アレンのため」と思って積み上げた死体の山が、逆にアレンの意志を継ぐ者たちを呼び覚ましている。
その決定的な破綻が、すぐそこまで迫っていた。
「……静かね」
私は誰もいない部屋で、満足げに呟いた。
外の世界の音は、分厚いカーテンと、私の心の壁によって完全に遮断されていた。
ここには私と、アレン(の幻影)しかいない。
完璧な世界だ。
私は椅子の上で小さく丸まり、幻影の手を握りしめて眠りについた。
夢の中だけが、私が幸せでいられる唯一の場所だったから。




