第30話 亀裂
私の心は、冬の湖面のように澄み渡っていた。
迷いはない。感情もない。あるのは、遂行すべき義務だけだ。
王宮の執務室。
私は一枚の書類に、躊躇なく署名をした。
それは、かつて革命軍の中核を担っていた第三歩兵部隊の解体と、隊長以下主要メンバーの処刑を命じる命令書だった。
「……彼らは、アレンが鍛えた兵たちでした」
報告に来た秘書官が、青ざめた顔で言った。
「先日の暴動鎮圧の際、市民への発砲を拒否したとのことですが……それは、彼らが民を守るという騎士道精神を持っていたからで……」
「騎士道?」
私は鼻で笑った。
「そんな甘っちょろいものが、何の役に立つの? 命令違反は反逆よ。彼らが引き金を引かなかったせいで、暴徒の鎮圧が遅れ、治安が乱れた。……それは、間接的に私を、そしてアレンの国を害する行為だわ」
私は署名した書類を放り投げた。
「即刻、刑を執行なさい。見せしめにするのよ。私の命令に背けば、かつての英雄だろうと容赦はしないと知らしめるためにね」
秘書官が震えながら退室しようとした、その時だった。
バンッ!!
乱暴に扉が開かれた。
秘書官が悲鳴を上げて飛び退く。
そこに立っていたのは、血相を変えたガルドと、顔をくしゃくしゃにして泣いているミアだった。
「……何の真似?」
私はペンを置き、冷ややかに二人を見据えた。
「許可なく入室することは禁じているはずよ。近衛隊長と筆頭侍女なら、礼儀くらいわきまえなさい」
「礼儀だァ!?」
ガルドが吠えた。
あの大柄な体が、怒りで震えている。彼が私に対してこれほど感情を露わにするのは、初めてのことだった。
「そんなもんクソ食らえだ! おいシルヴィア! お前、正気か!? 第三部隊の連中は、お前とアレン様のために一番血を流した奴らだぞ! そいつらを処刑するだと!?」
ガルドが大股で机に歩み寄り、両手でバンと天板を叩いた。
インク壺が倒れ、黒い液体が広がる。
私は眉一つ動かさず、汚れた書類を見つめた。
「……ガルド。私を『お前』呼ばわりするとは、随分と偉くなったものね」
「ふざけるな! 俺はアレン様との約束を守るために、必死でお前を支えてきた! だがな、これ以上は無理だ! お前のやってることは、アレン様が一番憎んだ『圧政』そのものじゃねえか!」
「シルヴィア様、お願いします……!」
ミアが私の足元にすがりついた。
彼女の涙が、私のスカートを濡らす。
「もうやめましょう……? こんな怖いこと、もう終わりにしましょう? 街の人たちはみんな震えています。誰も笑っていません。……こんなの、アレン様が望んだ世界じゃありません!」
アレン様が望んだ世界。
アレン様ならこうする。アレン様なら悲しむ。
まただ。
どいつもこいつも、死んだ彼の名前を免罪符にして、私を責め立てる。
(……うるさい)
頭の中で、何かが軋む音がした。
こいつらは何も分かっていない。
アレンが死んだあの瞬間、きれいごとだけの理想論も一緒に死んだのだということを。
「……黙りなさい」
私は低い声で言った。
「あなたたちに、私の何が分かるの? アレンを失った私の痛みが、絶望が、あなたたち如きに理解できるとでも思っているの?」
私は立ち上がり、ガルドを睨みつけた。
「アレンが望んだ世界? ええ、そうね。彼は誰も傷つかない、優しい世界を望んだわ。……その結果がどうなった? 彼は殺されたのよ! その優しさにつけ込まれて、無残に殺されたの!」
激情が堰を切って溢れ出す。
私は叫んでいた。
「優しさだけで国が守れるなら、アレンは今もここにいるはずよ! 彼を守れなかったこの世界に、正義なんてない! あるのは力だけ! 裏切り者を排除し、恐怖で統制しなければ、また大切なものが奪われる……!」
「だからって、罪のない人間まで殺していい理由にはならねえ!」
ガルドも負けじと怒鳴り返す。
「お前はただ、自分の悲しみを周りにぶつけてるだけだ! アレン様の復讐だとか言って、自分を正当化してるだけだろ!」
図星だった。
だからこそ、許せなかった。
私の心の、一番痛いところを、土足で踏み荒らされた気がした。
「……下がりなさい」
「シルヴィア!」
「下がりなさいと言っているのッ!!」
私が叫ぶと同時に、私の影から漆黒の靄のようなものが立ち上った気がした。
部屋の空気が凍りつく。
ガルドとミアが、息を呑んで後ずさる。
私は机の引き出しから、一丁の短銃を取り出した。
最新式の魔導銃。護身用に常に手元に置いているものだ。
私はその銃口を、かつての戦友たちに向けた。
「……シルヴィア様……?」
ミアが信じられないものを見る目で私を見つめる。
ガルドが歯を食いしばり、拳を震わせている。
「あなたたちは、甘い。その甘さが、いずれ私の足枷になる」
私は引き金に指をかけ、冷酷に告げた。
「出て行って。……今すぐ、私の目の前から消えなさい。二度と顔を見せないで」
「……本気か」
「次にその口を開いたら、撃つわ。……昔のよしみよ。命だけは助けてあげる」
ガルドは長い間、私を睨みつけていた。
その目には、怒りよりも深い、失望と哀れみの色が浮かんでいた。
それが、私をさらに苛立たせる。
「……わかったよ」
ガルドは静かに言った。
「だが、これだけは言っておく。……お前は今、世界で一番孤独だ。アレン様が命を懸けて守りたかったシルヴィアは、もう死んだんだな」
「ええ、そうよ。あの泣き虫な令嬢は、アレンと一緒に棺に入ったわ」
私は嘲るように笑ってみせた。
「いやだ……いやですぅ……」
泣きじゃくるミアの腕を引いて、ガルドが背を向ける。
二人が部屋を出て行く。
重い扉が閉まる音が、私たちの絆が断ち切られた音のように聞こえた。
部屋に、また静寂が戻る。
私は銃を机に置き、どさりと椅子に座り込んだ。
心臓が痛いほど脈打っている。手足が冷たい。
これでいい。
これで、私の邪魔をする者はいなくなった。
甘い言葉で私を惑わせ、弱さに引きずり込もうとする「過去」は、すべて切り捨てた。
ふと、視界の端に誰かが立っているのに気づいた。
窓際。月明かりの中に立つ、懐かしい人影。
アレンだ。
彼は悲しそうな顔も、怒った顔もしていなかった。
ただ、穏やかに微笑んでいた。
『よくやったね、シルヴィア』
幻覚のアレンが、私の頭を撫でるような仕草をする。
『君は正しい。君を理解しない人間なんて、必要ないんだ。俺たちは二人だけでいい。……そうでしょ?』
その言葉に、私の心は蕩けるように安らいだ。
そうよ。やっぱり、アレンだけが私を分かってくれる。
ガルドもミアも、誰も私たちの愛の深さを理解できないのよ。
「ええ、アレン。……あなたがいれば、私は何もいらない」
私は虚空に向かって手を伸ばし、存在しない温もりを抱きしめた。
目から一筋の涙がこぼれたが、それは悲しみの涙ではないと自分に言い聞かせた。
これは、決別の涙だ。
人間としての心を捨て、修羅として生きるための、最後の儀式なのだと。
その夜。
ガルドとミア、そして彼らを慕う一部の兵士たちが、王都から姿を消したという報告が入った。
私はそれを聞き流し、新たな処刑命令書にサインをした。
心の中に空いた穴は、もう誰にも埋められない。
ならば、血で満たすしかない。
世界中を敵に回してでも、私は私の「正義」を貫く。
亀裂は、修復不可能な断絶となり、私を完全な孤立へと追いやった。
けれど、今の私にはそれが心地よかった。
誰もいない玉座こそが、私とアレンだけの聖域なのだから。




