第29話 疑心暗鬼
ジェラルド元王太子の処刑から、一ヶ月が過ぎた。
諸悪の根源を断ったことで、国は平和になるはずだった。
民は安堵し、新しい時代を祝福し、私とアレンの功績を称えるはずだった。
けれど、現実は違った。
旧王宮の執務室。
分厚いカーテンが閉ざされた薄暗い部屋で、私は書類の山に埋もれていた。
聞こえてくるのは、私のペンが紙を引っ掻く音と、自分の呼吸音だけ。
かつてはアレンや仲間たちの笑い声で満ちていたこの部屋は、今や墓場のように静まり返っている。
「……シルヴィア様。報告書をお持ちしました」
新しく採用した秘書官が、震える手で羊皮紙の束を差し出した。
以前の有能な官僚たちは、「改革の方針が急進的すぎる」などと口答えをしたため、全員更迭した。今、私の周りにいるのは、私の顔色を伺うだけのイエスマンばかりだ。
でも、それでいい。余計な意見はいらない。必要なのは、私の手足となって動く駒だけだ。
「読みなさい」
「は、はい……。王都第4区の酒場にて、政府批判の声あり。数名の若者が『前の王政の方がマシだった』と発言しているのを、密告者が確認しました」
ピタリ、とペンの手が止まる。
前のほうがマシ?
ジェラルドの圧政に苦しみ、今日食べるパンさえ奪われていたあの日々が?
私たちが――アレンが命を懸けて覆したあの地獄が、マシだったと言うの?
「……愚か者たちね」
私は冷ややかに吐き捨てた。
「喉元過ぎれば熱さを忘れると言うけれど、ここまで記憶力が欠落しているとは。彼らは、誰のおかげで今の自由を享受できていると思っているのかしら」
「そ、その通りでございます。して、処遇は……」
「拘束しなさい。尋問ののち、反逆の意志ありと見なせば極刑に」
秘書官が息を呑む。
「し、しかし、酒場の酔っ払いの戯言かもしれま――」
「だから何?」
私は顔を上げ、秘書官を射抜くように見つめた。
「戯言から芽吹く毒もあるわ。小さな火種を見逃せば、やがてそれは大火となって国を焼く。……アレンが死んだ時のようにね」
あの日、パレードを襲った男も、最初はただの不満分子の一人だったかもしれない。
誰かが見逃し、誰かが「大したことはない」と放置した結果、彼は刃を持ち、私の太陽を奪った。
二度と、同じ過ちは繰り返さない。
可能性のある「悪意」は、すべて摘み取る。それが、残された私の義務だ。
「……仰せの通りに」
秘書官は逃げるように部屋を出て行った。
再び静寂が訪れる。
私はペンを置き、こめかみを押さえた。
頭が痛い。耳の奥で、常に誰かの嘲笑が聞こえるような気がする。
ジェラルドは死んだ。
実行犯も、その一族も、旧貴族派も、すべて粛清した。
なのに、なぜ心は晴れないの?
なぜ、胸の空洞は埋まらないの?
――まだ、足りないからだ。
心の奥底から、どす黒い声が響く。
敵は、目に見える者たちだけではない。
私を、アレンを、心の中で嘲笑っている者たちがいる。
「悲劇のヒロイン気取りか」「独裁者め」「いい気味だ」
街の陰で、酒場で、あるいは家庭の中で。
見えない敵が、私を包囲している。
「……ねえ、アレン。あなたもそう思うでしょう?」
私は、誰もいない執務室の隅にある、空っぽの椅子に話しかけた。
そこはかつて、アレンが座っていた場所だ。
すると、椅子の輪郭が陽炎のように揺らぎ、そこに「彼」が現れた。
琥珀色の瞳。優しい笑顔。あの日のままの、アレン。
『ああ、シルヴィア。君は正しいよ』
幻覚のアレンが、優しく語りかけてくる。
『世界は悪意に満ちている。僕を殺したような人間が、まだたくさん潜んでいるんだ。君が守らなきゃいけない。僕たちの国を、理想を』
「ええ、そうよね。私がしっかりしなきゃ」
私は幻影に向かって微笑みかけた。
周囲は私を狂ったと言うかもしれない。
けれど、私には見える。私には聞こえる。
アレンだけは、私の味方だ。彼だけが、私の苦しみを、正義を理解してくれる。
『疑わしきは罰するんだ。君が傷つく前に。僕の二の舞にならないように』
「わかったわ、アレン。あなたの言う通りにする」
私は新しい羊皮紙を取り出し、さらなる命令書を書き始めた。
『密告奨励令』。
隣人を、友人を、家族を監視させ、少しでも不審な言動があれば通報させる。
通報者には報奨金を与え、被疑者は即刻収容所へ送る。
恐怖で縛らなければ、人はすぐに裏切る。
愛も、信頼も、アレンの死と共に消え失せた幻想に過ぎないのだから。
***
数日後。王都の空気は一変していた。
かつて活気に溢れていた大通りは、重苦しい沈黙に包まれている。
人々は道を歩く時も伏し目がちで、互いに視線を合わそうとしない。
挨拶すらも小声で、余計なことは一切喋らない。
壁に耳あり、障子に目あり。
いつ、誰が「密告者」になるか分からない疑心暗鬼が、都市全体を覆っていた。
街角のパン屋。
以前は行列ができていた人気店だが、今は客足もまばらだ。
「……おい、聞いたか? 隣の靴屋の息子が連れて行かれたって」
「しっ! 声が大きいぞ!」
パンを買う客たちが、盗人のようにひそひそと言葉を交わす。
「なんでも、『税金が高い』って愚痴ったのを、商売敵に聞かれたらしい」
「それだけで……? 反逆罪で処刑か?」
「ああ。……もう、うかつに息もできねえな」
店主の男が、震える手でパンを包みながら溜息をつく。
その時、店のドアが乱暴に開けられた。
「動くな! 国家保安局だ!」
黒い制服を着た秘密警察の男たちが雪崩れ込んでくる。
客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、男たちは店主を取り囲んだ。
「パン屋の主人、お前に反逆の容疑がかかっている」
「な、何をおっしゃるんですか!? 私は真面目に税を納めて……!」
「黙れ! 『最近の小麦の質が悪いのは政府のせいだ』と発言したとの報告がある!」
「そ、そんな馬鹿な! ただの世間話で……」
弁明は許されなかった。
店主は殴り倒され、猿轡を噛ませられて引きずり出されていく。
店の奥から奥さんと子供が泣き叫んで飛び出してくるが、彼らもまた、「共犯の疑いあり」として連行された。
残されたのは、踏み荒らされたパンと、凍りついたような沈黙だけ。
誰も助けようとはしなかった。
助ければ、次は自分が標的になるからだ。
その様子を、王宮のテラスから見下ろしていた私は、満足げにワインを傾けた。
「……いいわ。とても静かで、規律正しい」
街からは雑音が消えた。
不平不満も、嘲笑も、私を悩ませる雑多な声はすべて消え失せた。
あるのは、私への絶対的な服従と、心地よい静寂だけ。
背後で、ガルドが苦しげに呻く気配がした。
「……シルヴィア様。これで、本当によろしいのですか」
「何が?」
「あのパン屋は、革命の時、俺たちに無償で食料を提供してくれた支援者でした。アレン様も、彼の焼くパンがお好きでした」
ガルドの声には、隠しきれない非難の色が混じっていた。
私は振り返らず、冷淡に答える。
「過去の功績が、現在の罪を帳消しにするわけではないわ。彼は政府を批判した。それは、この国の秩序を乱す行為よ」
「ですが、あんな些細な愚痴で……! これでは、民は安心して暮らせません!」
「安心? アレンがいない世界で、誰が安心して暮らせるというの?」
私はグラスを強く握りしめた。
「彼らは生きているだけマシよ。アレンは、不満を言う口さえ奪われたのよ? ……ガルド、あなたもアレンを忘れたわけではないでしょうね」
「わ、忘れるものですか! 俺は……俺はただ、アレン様が命を懸けて守ろうとした民たちが、こんな風に怯えているのが……忍びないのです」
大男が、子供のように肩を震わせている。
かつては頼もしい背中だと思っていたけれど、今の私には、その優しさが弱さにしか見えなかった。
「甘いわ、ガルド。……優しさだけでは何も守れないと、あの日、思い知ったはずでしょう?」
私は彼に背を向け、再び街を見下ろした。
「不満分子はすべて摘み取る。恐怖で縛り付けてでも、国を一つにする。……それが、これ以上誰も失わないための、唯一の方法よ」
私の隣で、幻覚のアレンが優しく微笑んで頷いた。
『そうだよ、シルヴィア。君は正しい。誰も信じちゃいけない。……信じられるのは、僕と君だけだ』
「ええ、アレン。……私には、あなたがいればそれでいい」
私は虚空に向かって、愛おしげに語りかけた。
ガルドが絶望的な顔で私を見ていることにも気づかずに。
あるいは、気づいていても、もうどうでもよかったのかもしれない。
疑心暗鬼の闇は、私の心を、そして国全体を、どす黒く塗り潰していく。
そこにはもう、光が差し込む余地など残されてはいなかった。




