第28話 ジェラルドの処刑
王宮の地下深く。
かつてはワイン貯蔵庫として使われていたその場所は、いまや国一番の重罪人を収容する監獄へと変えられていた。
湿った冷気が肌を刺す。石造りの壁には緑色の苔がむし、松明の明かりが届かない闇の奥からは、時折ネズミが這い回る音が聞こえる。
カツ、カツ、カツ……。
私のヒールの音だけが、静寂の回廊に響き渡っていた。
「こ、こちらでございます、シルヴィア様」
案内役の看守が、震える手で一番奥の独房の鍵を開ける。
重い鉄の扉が、錆びついた悲鳴を上げて開いた。
「……下がりなさい。二人だけで話がしたいの」
「は、はい! 入り口で控えております!」
看守が逃げるように去っていくのを見送り、私は独房の中へと足を踏み入れた。
そこには、一人の男がいた。
壁に繋がれた鎖に手足を拘束され、汚れた藁の上に力なく座り込んでいる。
かつては煌びやかな軍服を着こなし、傲慢な笑みで国を見下ろしていた男。
この国の元王太子、ジェラルド・アークライトだ。
「……誰かと思えば。元婚約者殿のお出ましか」
ジェラルドが顔を上げた。
頬は痩せこけ、髭は伸び放題。かつての美貌は見る影もない。だが、その瞳だけは依然として濁った光を宿し、私を睨め付けていた。
「久しぶりね、ジェラルド。……随分と狭いお住まいだこと」
「ふん。皮肉を言いに来たのか? それとも、今更私に許しを請いに来たのか?」
彼は鎖をジャラつかせながら、嘲るように笑った。
この期に及んで、まだ自分が上の立場だと思っているようだ。
その愚かさが、今の私には滑稽でしかなかった。
「許し? 誰が誰に?」
私は冷ややかに問い返した。
「私があなたに? それとも、あなたが私に?」
「決まっているだろう! 貴様は王族である私を陥れ、不当に幽閉した大罪人だ! だが、今ならまだ間に合うぞ。私をここから出し、王位に就けろ。そうすれば、側室の末席くらいには置いてやろう」
ジェラルドは本気で言っていた。
外界の情報から遮断されている彼は、まだ自分が「王太子」としての価値を持っていると信じているのだ。
あるいは、そう信じ込まなければ、自我が崩壊してしまうのかもしれない。
私は無表情のまま、彼を見下ろした。
怒りも、憎しみさえも湧いてこない。ただ、目の前にいるのが「アレンを殺した世界を作った元凶」であるという事実だけが、冷たい石のように胸にある。
「……残念ね、ジェラルド。あなたの席はもうないわ」
私は淡々と告げた。
「王政は廃止されたの。貴族制度も解体中よ。あなたの父親である前国王も、すでに退位して地方へ隠居させられたわ」
「な、なんだと……? 嘘だ、そんな馬鹿なことがあるか! 民衆が、王なしで生きていけるはずがない!」
「生きているわよ。あなたがいなくても、太陽は昇るし、作物は育つ。……皮肉なことにね」
アレンがいなくても、世界は回っている。
その事実が、私には何よりも許せなかった。
「貴様……ッ! 田舎者の分際で、国を盗んだ気か!」
「盗んだんじゃないわ。掃除をしたのよ」
私は一歩、彼に近づいた。
ドレスの裾が、汚れた床を擦る。
「あなたが作ったこの腐った国が、アレンを殺した。あなたの蒔いた種が、巡り巡って私の愛する人を奪った。……だから私は、あなたの作った世界をすべて壊すことにしたの」
「アレン……? ああ、あの生意気な男か」
ジェラルドが鼻で笑った。
「死んだのか? ははは! それはいい気味だ! 私に逆らった天罰が下ったのだ! ざまあみろ!」
その瞬間。
私の中で、何かが弾けた。
カツン。
私はヒールで、ジェラルドの手を強く踏みつけた。
「ぎゃあああっ!?」
悲鳴が上がる。
私は表情を変えず、さらに体重をかけてグリグリと踏みにじる。
「その汚い口で、彼の名前を呼ばないで」
「い、痛い! やめろ、離せ! 私は王太子だぞ!」
「ただの罪人よ。……いいえ、それ以下ね」
私は彼の手を蹴り飛ばし、屈み込んで彼の目を覗き込んだ。
かつては恐怖で直視することさえできなかったその瞳。
今は、恐怖に怯え、涙を浮かべている。
「ねえ、ジェラルド。教えてあげる」
私は囁いた。愛の言葉を告げるように、優しく、残酷に。
「あなたは今日、死ぬの」
ジェラルドの動きが止まった。
理解が追いついていないような顔で、私を見返す。
「し……死ぬ? 私が? 処刑されるというのか?」
「ええ。もう判決は出ているわ。『国家転覆罪』および『内乱首謀罪』。……まあ、私が書いた判決書だけど」
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、彼の目の前にかざした。
そこには、赤いインクで『死刑』の二文字が記されている。
「待て、待ってくれ! 話せばわかる! 私は王族だぞ! 殺せば他国が黙っていない!」
「他国? ああ、大丈夫よ。すでに国境には軍を配備してあるわ。文句がある国があれば、ついでに潰すだけだから」
「き、貴様……正気か!? 狂っている!」
ジェラルドが腰を抜かし、後ずさる。
壁に背中を押し付け、ガタガタと震え始めた。
「狂っている? ……そうかもね」
私は無感情に肯定した。
「アレンが死んだあの日、私の心は一度死んだの。今の私は、ただの残骸よ。……でもね、残骸にも執着はあるの」
私は立ち上がり、扉の方へと向かった。
用は済んだ。
彼に絶望を与えること。そして、アレンの仇の一人を消すこと。
「待て! 行かないでくれ、シルヴィア! いや、シルヴィア様!」
ジェラルドが這いつくばり、鎖を引きちぎらんばかりに手を伸ばしてくる。
「助けてくれ! なんでもする! 靴でも舐める! だから命だけは……!」
かつての婚約者。国の頂点にいた男。
その彼が今、泥にまみれ、鼻水を垂らして命乞いをしている。
なんと醜く、哀れな姿だろう。
……胸がすくような爽快感があるかと思った。
「ざまあみろ」と、笑えるかと思った。
けれど、私の心は凪いだままだった。
冷たい湖の底のように、何の感情も湧き上がってこない。
ただ、虚しいだけ。
こんなどうしようもない男のために、アレンは命を懸けたのか。
こんな男が作った世界に、私たちは翻弄されていたのか。
「……さようなら、ジェラルド」
私は振り返ることなく、看守に合図を送った。
「執行しなさい。……すぐに」
重い鉄の扉が閉まる。
その向こうから、「いやだぁぁぁぁっ!」という絶叫が聞こえ、そしてすぐに途切れた。
鈍い音が一度だけ響き、あとは静寂が戻った。
終わった。
全ての元凶。私の人生を狂わせ、アレンを苦しめた男は、呆気なくこの世から消えた。
私は王宮の廊下を歩き出した。
窓の外には、美しい満月が浮かんでいる。
アレンと二人で眺めた、あの夜と同じ月だ。
「……アレン」
誰もいない廊下で、私は小さく彼を呼んだ。
仇は取ったわ。
あいつは恐怖に歪んだ顔で、惨めに死んでいった。
ねえ、褒めてくれる?
「よくやった」って、頭を撫でてくれる?
……ううん、違うわね。
あなたはきっと、悲しい顔をする。
「そんなことのために、君の手を汚してほしくなかった」って、泣くかもしれない。
想像の中のアレンの顔が、悲しげに歪む。
それだけで、胸が張り裂けそうになる。
「ごめんね、アレン。……でも、もう止まれないの」
私は自分の両手を見た。
白い手袋の下には、見えない血がべっとりとこびりついている。
ジェラルドの血だけじゃない。粛清した貴族たち、テロリストと疑われた市民たち。
私の命令一つで消えていった、数え切れない命の重み。
この手で、もう一度アレンに触れることなんて、許されるはずがない。
私はもう、彼の隣に立つ資格なんてない「穢れた女」なのだから。
(だったら、突き進むしかないわ)
私は涙を流さなかった。
代わりに、口元に冷たい笑みを貼り付けた。
地獄へ行くなら、道連れは多いほうがいい。
この世界に残る「アレンを害する可能性のあるもの」を、すべて道連れにしてやる。
それが、愛する人を守れなかった私への、せめてもの罰であり、贖罪だ。
「……次は、誰を殺そうかしら」
独り言が、冷たい廊下に吸い込まれていく。
復讐は終わらない。
虚無を埋めるための血の宴は、まだ始まったばかりだった。




