第26話 嘲笑う亡霊たち
葬儀から三日が過ぎた。
王都には、表面上の平穏が戻りつつあった。
瓦礫の撤去が進み、商店が少しずつ営業を再開し、人々は悲しみを胸に秘めながらも、生きるための営みを再開していた。
けれど、私の時間だけは止まったままだった。
王宮の一室、かつてアレンと共に執務を行っていた部屋。
私は主を失った広い執務机の前に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。
手元には、新政府の運営に関する書類が山積みになっている。アレン亡き後、革命の象徴である私が決済しなければならない案件は、減るどころか増える一方だった。
「……シルヴィア様。お茶をお持ちしました」
ミアが控えめに部屋に入ってきた。
彼女の目は赤く腫れている。あれから毎日、隠れて泣いているのを知っていた。
それでも彼女は気丈に振る舞い、食事も喉を通らない私を甲斐甲斐しく世話してくれている。
「ありがとう、ミア。……そこに置いておいて」
「あの、少しでも召し上がってくださいね。アレン様も、シルヴィア様が倒れたら悲しみますから……」
その名前が出た瞬間、胸の奥が鋭利な刃物で抉られたように痛む。
アレンなら、悲しむだろうか。
それとも、「早くこっちへおいで」と笑ってくれるだろうか。
ミアが出て行った後、私は震える手でカップを持ち上げた。
温かい湯気。かつて辺境の屋敷で、みんなで囲んだ食卓の香りがする。
それが酷く辛くて、私は一口も飲めずにカップを置いた。
(……ここにいても、息が詰まるだけね)
私は逃げるように部屋を出た。
宛てもなく王宮の廊下を歩く。
すれ違う官僚や兵士たちは、喪服姿の私を見ると、痛ましげに目を伏せ、壁際によって道を譲る。
「可哀想な未亡人」「悲劇の聖女」。
彼らの無言の視線が、私にそうレッテルを貼っていくのが分かった。
無意識のうちに、足は人気のない回廊へと向かっていた。
ここは旧王宮の東棟。かつて貴族たちが密談に使っていた、薄暗く入り組んだ場所だ。
静寂を求めて奥へと進むうち、ふと、角の向こうから話し声が聞こえてきた。
忍び笑いを含んだ、下卑た男たちの声。
「――いやあ、それにしても傑作だったな、あの葬式は」
ぴくり、と足が止まる。
壁の陰に身を潜め、耳を澄ませる。
声の主は三人ほどだろうか。豪奢な服が擦れる音と、葉巻の匂いが漂ってくる。
おそらくは「旧貴族派」と呼ばれる連中だ。革命の際、早々にジェラルドを見限って降伏し、新政府に潜り込んだ日和見主義者たち。
「全くだ。あの田舎者の英雄気取りが、くたばってくれて清々したよ」
「違いない。身の程知らずにも王宮を我が物顔で歩き回って……。下級貴族の分際で、我々に指図するなど百年早かったのだ」
血液が、逆流する音がした。
彼らは笑っていた。
アレンの死を。私の最愛の人が、命を賭して守った平和の上で、彼の死を嘲笑っている。
「しかし、惜しいことをしたな。あのテロリストめ、どうせなら隣の女も一緒に殺しておけばよかったものを」
「ははは! 全くだ。あの『聖女様』も、婚約者を二度も失うとは不吉な女だ」
「まあ、生きていてくれて好都合かもしれんぞ? 後ろ盾を失った女だ。うまく取り入れば、我々の傀儡として使える」
「ああ、それはいい考えだ。飾り物の女王として祭り上げ、実権は我々が握る。……そうすれば、かつての特権を取り戻せるぞ」
ゲラゲラという、粘つくような笑い声。
視界が赤く染まっていく。
悲しみではない。絶望でもない。
それは、私の人生で初めて感じる、純粋で、強烈な「殺意」だった。
アレンは、何のために死んだの?
この人たちを守るため?
こんな、腐りきった魂を持つ寄生虫たちを生かすために、あんなに苦しんで、血を流して死んだの?
(……違う)
私は唇を噛み締めた。鉄の味が口の中に広がる。
アレンが守りたかったのは、こんな世界じゃない。
彼が愛したのは、ミアやガルド、辺境の村人たちのような、清く慎ましく生きる人々だ。
こんな、他人の死を嘲笑い、私腹を肥やすことしか考えていない亡霊どものためじゃない。
あの日、パレードを襲った男。
あれは「旧貴族派の残党」だと言われていた。
実行犯は捕まり、処刑された。
けれど、その背後にいたのは誰だ?
アレンが死んで得をするのは誰だ?
壁の向こうで談笑するこの男たちと、テロリストの間に、何の違いがあるというのだろう。
彼らは直接手を下していないだけだ。
アレンを殺したのは、ナイフを持った男一人ではない。
この国に蔓延る「悪意」そのものが、彼を殺したのだ。
「……許さない」
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
アレンは優しかった。
革命の時も、ジェラルドを殺さず、無益な血を流すことを嫌った。
「誰もが幸せになれる国」を夢見ていた。
でも、その優しさが仇になったのなら。
彼が優しすぎたせいで、悪意が生き残り、彼を喰らい尽くしたのだとしたら。
(私が、やるしかない)
涙は、もう枯れていた。
代わりに、胸の奥底に、冷たくて黒い炎が点火した。
アレンが守れなかったもの。アレンが成し遂げられなかった「掃除」。
それを私が引き受ける。
汚れ仕事も、虐殺の汚名も、すべて私が被ればいい。
私は音もなく踵を返した。
今ここで彼らに掴みかかり、喚き散らすことなどしない。そんなことをしても、彼らは舌を出して逃げるだけだ。
もっと確実に。もっと徹底的に。
二度と、アレンを愚弄する言葉を吐けないようにしてやる。
自室に戻ると、私は鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、数日前までの泣き腫らした、弱々しい女ではなかった。
血の気を失った蒼白な肌。けれど、その瞳だけが、鬼火のように青く燃えている。
「ミア」
私は呼び鈴を鳴らした。
すぐにミアが飛んでくる。
「は、はい! シルヴィア様、どうなさいましたか!?」
「ガルドを呼んでちょうだい。それと、近衛騎士団の編成名簿と、旧貴族たちの資産リストを持ってきて」
私の声は、驚くほど冷静だった。
ミアが戸惑ったように私を見る。
「あ、あの……シルヴィア様? 何かあったのですか? 顔色が……」
「いいえ、何でもないわ。ただ……目が覚めただけよ」
私は鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
それは、かつて王宮で「人形」として生きていた頃の、完璧で、冷徹な微笑みだった。
「優しくて、清らかな『聖女』は、アレンと一緒に死んだの」
私は、黒い喪服のリボンをきつく締め直した。
「これからは、私がこの国を統べる。……アレンを奪った報いを、この世界すべてに支払わせるために」
その夜。
王宮の執務室には、深夜遅くまで灯りがともっていた。
集められたのは、ガルドをはじめとする、革命当初からの腹心たち数名のみ。
私は机の上に、一枚のリストを叩きつけた。
そこには、今日廊下で聞きつけた男たちの名前を含む、旧体制に連なる有力者たちの名が記されていた。
「ガルド。近衛騎士団の中から、本当に信頼できる者だけを選抜して」
「は……? 何をするおつもりで?」
ガルドが怪訝な顔をする。
私はリストを指先で弾き、冷ややかに告げた。
「害虫駆除よ」
部屋の空気が凍りつく。
ガルドが息を呑むのが分かった。
「……シルヴィア様。それは、アレン様が望まれたことではありません」
「アレンは死んだわ」
私は即答した。心臓が痛んだが、表情には出さない。
「彼が望んだ『理想』は、彼自身を守れなかった。なら、やり方を変えるしかないわ。……この国に巣食う毒を、すべて抜き取るの」
私の目を見て、ガルドは口を噤んだ。
彼は聡い男だ。私の決意が、生半可なものではないことを悟ったのだろう。そして、止めても無駄だということも。
「……わかりました。俺は、あの日アレン様に誓った。『シルヴィア様を守る』と。……あなたが地獄へ行くと言うなら、門番くらいは引き受けましょう」
ガルドは深く頭を下げた。
その拳が、悔しげに震えているのを私は見逃さなかった。
ごめんなさい、ガルド。あなたにまで、血の道を歩ませてしまう。
でも、私はもう止まれない。
窓の外では、冷たい月が王都を見下ろしていた。
かつてアレンと見上げた、あの美しい月。
今の私には、それが死者の魂を監視する冷酷な眼差しにしか見えなかった。
(見ていて、アレン)
私は心の中で、亡き愛する人に語りかけた。
(あなたの優しさが通用しない世界なら、私が恐怖で塗り替えてあげる。あなたを笑った者たちが、二度と笑えないように。……愛しているわ、誰よりも)
ペンの先が、紙を突き刺す。
それが、粛清の始まりの合図だった。




