第25話 葬送の雨
雨が降っていた。
世界のすべてを灰色に塗り潰すような、冷たく、絶え間ない雨だった。
私は、王都の大聖堂にいた。
ほんの数日前、ここで愛を誓い、眩いばかりの祝福を浴びたはずの場所。
ステンドグラスから差し込んでいた虹色の光は、今は厚い雲に遮られ、堂内は水底のように薄暗く沈んでいる。
純白のウェディングドレスは、漆黒の喪服へと変わっていた。
「……これより、故アレン・ウィンスレット殿の葬儀を執り行います」
神父の沈痛な声が、高い天井に反響する。
並べられた参列者たちの席からは、押し殺したようなすすり泣きが波のように聞こえてくる。
最前列に座る私は、ただ呆然と、目の前にあるものを凝視していた。
黒塗りの、大きな棺。
あの中に、アレンがいる。
私の太陽だった人が、冷たく、動かなくなって、あの中に閉じ込められている。
(嘘みたい)
心の一部が、他人事のように呟いた。
これは悪い夢だ。
目が覚めれば、いつものようにアレンが「おはよう、シルヴィア」と笑いかけてくれる。ミアが朝食の皿を割り、ガルドが豪快に笑い飛ばす、あの騒がしくて温かい朝が来るはずだ。
けれど、膝の上で握りしめた手の震えが止まらない。
何度瞬きをしても、目の前の黒い箱は消えない。
現実という刃が、私の心臓をゆっくりと、確実に刻んでいく。
「シルヴィア様……」
隣で、ミアが崩れ落ちるように泣いていた。
彼女は私の手を握りしめ、私の代わりに涙を流してくれているようだった。
反対側には、ガルドが仁王立ちしている。彼は決して泣かなかったが、食いしばった奥歯が砕けそうなほど強く噛み締められ、頬を伝う一筋の雫が、彼の慟哭を物語っていた。
私は、泣けなかった。
涙はあの日、あのアレンの亡骸の上で流し尽くしてしまったようだった。
今の私の中にあるのは、砂漠のような乾きと、底なしの空虚だけ。
式が進み、献花の時間になった。
長い列が作られる。
かつてアレンと共に戦った革命軍の兵士たち、救われた市民たち、遠方から駆けつけたウィンスレット領の村人たち。
彼らは皆、棺の前で足を止め、花を手向け、肩を震わせていた。
「アレン様……。ありがとうございました」
「あなたがいたから、俺たちは……」
「早すぎます……。こんなの、あんまりだ……」
聞こえてくる感謝と嘆きの言葉。
誰もが彼を愛していた。誰もが彼を「英雄」と呼んだ。
けれど、その「英雄」という称号が、私には呪いのように聞こえた。
英雄になんて、ならなくてよかった。
国なんて救わなくてよかった。
ただの田舎貴族のアレンでいてくれれば。私だけの、アレンでいてくれれば。
そうすれば、彼は今も私の隣で笑っていたかもしれないのに。
(……ごめんなさい。こんなことを考えたら、あなたが命を懸けた意味がなくなってしまうわね)
私は唇を噛み、湧き上がる黒い感情を押し殺した。
やがて、私の番が来た。
ミアに支えられ、よろめきながら棺のそばへと歩み寄る。
手には、一輪のシロツメクサ。
王宮の庭師が用意した豪華な百合ではなく、彼が私にくれたのと同じ、野の花。
棺の中の彼は、まるで眠っているようだった。
死化粧を施され、血の気のない顔。けれど、その口元には微かに笑みが残っているように見えた。
最後に見せてくれた、あの笑顔の残滓。
「……アレン」
名前を呼んでも、返事はない。
いつもなら、すぐに私の方を向き、愛おしそうに名前を呼び返してくれるのに。
彼の頬に触れる。
ひやりとした、石のような冷たさが、指先から心臓へと突き刺さる。
ああ。
いないんだ。
どこにも、いないんだ。
私の魂の半分が、永遠に失われてしまったことを、その冷たさが残酷なまでに突きつけてくる。
「……約束したじゃない」
掠れた声が漏れた。
「一生守るって。ずっと一緒にいるって。……嘘つき」
シロツメクサを、彼の胸の上、あの深紅に染まった傷跡を隠すように置いた。
これが、二度目のプロポーズの返事。
そして、永遠の別れの言葉。
「さようなら、私の愛しい人。……ゆっくり、休んで」
私が下がると、棺の蓋が閉じられることになった。
重い木の蓋が、アレンの顔を覆い隠していく。
光が遮られ、彼が完全なる闇の向こう側へと行ってしまう。
「待って……!」
思わず手が伸びた。
閉ざさないで。彼を見えなくしないで。
彼がいなくなったら、私はこの広い世界で、たった一人きりになってしまう。
けれど、蓋は無情にも閉じられ、釘を打つ音が響き渡った。
コン、コン、コン……。
その乾いた音の一つ一つが、私と彼の世界を断絶する楔のようだった。
葬儀が終わり、棺が墓地へと運ばれていく。
雨脚は強まり、参列者たちは泥にまみれながらその後を追う。
王宮の裏手、かつて私たちがサンドイッチを食べた庭園が見下ろせる丘の上に、新しい墓所が作られていた。
土がかけられていく。
あの日、彼が命がけで守ったこの国の土が、彼を飲み込んでいく。
私はそれを、ただ立ち尽くして見ていた。
雨に打たれ、ドレスが重く張り付くのも気にならなかった。
心の中の嵐に比べれば、この程度の雨など、小雨にも等しい。
すべてが終わった後、人々は三々五々と散っていった。
残されたのは、真新しい墓標と、私と、側近たちだけ。
「……シルヴィア様」
ガルドが、絞り出すような声で言った。
「風邪を引きます。……戻りましょう」
「……ええ」
私は機械的に頷き、踵を返した。
一歩踏み出すたびに、足が鉛のように重い。
アレンのいない世界を歩くことが、こんなにも苦痛だなんて。
王宮の廊下を歩きながら、私はぼんやりと考えていた。
アレンは、「生きて」と言った。
「俺の分も」と。
それは、私への最大の愛であり、そして最も残酷な呪いだった。
どうやって生きればいいの?
あなたがいないこの空虚な世界で、何をよすがに息をすればいいの?
「革命の象徴」として? 「悲劇の未亡人」として?
そんなもの、私はなりたくなかった。
私はただ、アレンの妻になりたかっただけなのに。
「……少し、一人にして」
自室の前で、私はミアとガルドを制した。
「でも、シルヴィア様……」
「お願い。……少しだけ、考えたいの」
二人は心配そうに顔を見合わせたが、やがて深く一礼して下がっていった。
私は部屋に入り、扉を閉めた。
鍵をかける音だけが、静寂に響く。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
私はドアに背中を預けたまま、ズルズルと床に崩れ落ちた。
膝を抱え、小さく丸まる。
「う……うぅ……」
堰き止められていたものが、決壊した。
嗚咽が漏れる。
喉が張り裂けそうなほどの、激しい慟哭。
「アレン……アレン……ッ! 会いたい……会いたいよぉ……ッ!」
誰もいない部屋で、私は子供のように泣き叫んだ。
彼の名前を呼び続けた。
何度呼んでも、優しい腕が私を抱きしめてくれることはない。温かい声が返ってくることもない。
あるのは、冷たい雨音と、底知れない孤独だけ。
私は知ってしまった。
愛することの喜びよりも、失うことの絶望の方が、はるかに深く、重いことを。
この夜、私は一生分の涙を流した。
そして、その涙が涸れ果てた時――私の心には、ぽっかりと巨大な空洞が残された。
何も感じない。何も響かない。
ただ風が吹き抜けるだけの、虚無の穴。
その穴が、やがてどす黒い何かで埋め尽くされる予兆など、まだ微塵も感じてはいなかった。
今はただ、悲しみだけが、私の世界のすべてだった。




