第24話 愛する人の最期
世界から、音が消えた。
歓声も、鐘の音も、風のそよぎさえも。
一瞬にして遠ざかり、耳の奥でキーンという鋭い耳鳴りだけが響いている。
目の前にあるのは、赤。
鮮烈で、残酷な赤。
それが、私の真っ白なウェディングドレスを汚していることに気づくまで、数秒の時間を要した。
そして、その赤の源が、私をかばうように覆いかぶさってきた愛しい人の背中から溢れ出していることを理解した瞬間――。
私の時間は、止まった。
「……アレン?」
喉から漏れたのは、ひび割れた硝子のような、頼りない声だった。
重い。
いつも私を優しく包み込んでくれた彼の体が、鉛のように重く、私にのしかかっている。
ドクン、ドクン、と。
私の心臓だけが、場違いなほど激しく脈打っていた。
嫌な予感が、冷たい波となって足元から這い上がってくる。
「アレン……。ねえ、どうしたの? 冗談でしょう? ねえ……」
私は震える手で、彼の体を抱き起こした。
彼の手が、力なく滑り落ちる。
いつも私を導いてくれた、温かくて大きな手が、今は糸の切れた人形のようにぶら下がっている。
彼の背中には、深々と短剣が突き刺さっていた。
止めどなく溢れる血が、私の手袋を、ドレスを、そして馬車の床を、見るも無残に染め上げていく。
温かい。ひどく温かい血だ。
それが、彼の命そのものだということが、どうしようもなく恐ろしかった。
「嫌……。嫌よ、こんなの」
私は必死に彼を仰向けにした。
アレンの顔色は、蝋のように白かった。
いつも私を安心させてくれた琥珀色の瞳は、焦点が合わず、虚ろに空を映している。
「医者を! 誰か、早く医者を呼んで!! アレンが、アレンが……ッ!」
喉が裂けんばかりに叫んだ。
私の悲鳴で、ようやく凍りついていた周囲の時間が動き出したようだった。
「貴様ァァァァッ!!」
ガルドの獣のような咆哮が響く。
彼は御者台から飛び降り、逃げようとした男を背後から蹴り倒し、その首を片手で締め上げている。
民衆の悲鳴。怒号。混乱。
幸せの絶頂にあったパレードは、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
犯人が誰かとか、どうしてこんなことが起きたとか、そんなことはどうでもいい。
ただ、目の前のアレンが。
私のすべてである彼が、壊れていく。
命が、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていくのを、どうすることもできない。
「……し、る……ヴィ……ア……」
アレンの唇が、微かに動いた。
喉から漏れるのは、空気の漏れるような掠れた音と、血の泡。
「喋らないで! お願い、死なないで! 置いていかないでよ……!」
私は彼に縋り付いた。
涙が溢れて止まらない。視界が滲んで、大好きなアレンの顔が歪んで見える。
嫌だ。見えなくなるのは嫌だ。一秒でも長く、彼を見ていたいのに。
「ご……め、ん……」
アレンが、謝った。
どうして謝るの? あなたは何も悪くない。
私をかばったせいで。私が、もっと注意していれば。私が、あんなにはしゃいでいなければ。私が、あなたに守られてばかりいたから。
「……笑っ、て……」
彼の指先が、私の頬に触れようとして、力なく落ちた。
私は慌ててその手を掴み、自分の頬に押し当てる。
冷たい。
あんなに熱かった手が、急速に冷えていく。
「き、みは……太陽、だ……。だから……」
「嫌! 私は太陽なんかじゃない! あなたがいないと輝けないの! お願い、行かないで!」
私は子供のように泣き叫んだ。
王妃教育で培った品位も、革命軍の参謀としての冷静さも、かなぐり捨てて。
ただの、愛する人を失いたくない一人の女として。なりふり構わず喚き散らした。
神様、お願いします。私の命をあげます。
心臓でも、手足でも、なんでも持っていってください。
だから、彼を返して。
彼を連れて行かないで。
アレンの瞳が、ふっと私を捉えた気がした。
その瞳には、死の淵にありながら、私への慈愛だけが満ちていた。
「生き、て……。俺の……ぶん、も……」
呪いのような、願い。
一人で生きろと言うの?
あなたのいない色のない世界で、息をして、ご飯を食べて、眠れと言うの?
そんな残酷なこと、言わないで。
あなたとなら、地獄だって天国だった。でも、あなたがいないなら、天国だって地獄よ。
「嫌よ! あなたがいなきゃ意味がないの! アレン、アレンッ!」
私の叫びは、彼に届いただろうか。
彼は最後に、ふわりと笑ったように見えた。
いつもの、私を安心させるための、少し不器用で、温かい笑顔。
昨日、「愛してる」と言ってくれた、あの笑顔。
「あい、して……る……」
――フッ、と。
彼の手から、力が抜けた。
支えを失った手が、パタリと床に落ちる。
胸の上下が止まる。
琥珀色の瞳から、光が消える。
「……あ……れん?」
時が止まった。
周囲の喧騒が、遠い世界の出来事のように思える。
ガルドが何かを叫んでいる。ミアが駆け寄ってきて、泣き崩れている。
衛生兵たちがアレンの体を取り囲み、何かを叫び、首を振っている。
何を言っているの?
諦めないでよ。
アレンは疲れて眠っているだけよ。
昨日、遅くまで起きていたから。式の準備で疲れているだけだから。
少し寝たら、また目を覚まして、「おはよう、シルヴィア」って笑ってくれるわ。
「ねえ、アレン。起きて」
私は彼を揺すった。
血まみれのドレスも気にせず、彼を強く抱きしめた。
まだ温かい。ほら、ここにいる。心臓の音が聞こえないだけ。
「約束したじゃない。ずっと一緒だって。おじいちゃんとおばあちゃんになるまで、手を繋いでいるって」
涙が、彼の動かない顔に降り注ぐ。
血を洗い流そうとするかのように。ポタポタと、とめどなく。
「嘘つき……。守るって言ったくせに。私を一人にしないって言ったくせに!」
私の慟哭が、青空に吸い込まれていく。
あまりにも青く、残酷なほどに美しい空。
祝福の鐘はいつの間にか鳴り止み、代わりに弔いのような風が吹き抜けていく。
私の心の中で、何かが砕け散る音がした。
パリン、と。
ガラス細工のように脆く、美しかった「幸福」という名の器が、粉々に砕け散った音。
アレンが死んだ。
私の光が、消えた。
私が生きる意味も、世界を愛する理由も、未来への希望も、すべて彼と共に死んだ。
ふらりと、視界が揺れる。
ミアが私の背中をさすり、ガルドが血走った目で天を仰いで吼えている。
民衆たちの悲鳴。嘆き。
うるさい。
みんな、うるさい。
私の大事な人が眠っているのよ。静かにして。
起こさないで。
彼は今、幸せな夢を見ているはずなの。私と結婚して、領地へ帰って、家族を作る夢を。
私はアレンの冷たくなった頬に、自分の頬を擦り寄せた。
鉄の匂いと、彼の残り香。
それが、私が最後に感じた「幸せ」の残滓だった。
(ああ……。神様、あなたが本当にいるのなら)
虚ろな意識の中で、私は祈った。
救済を求めてではない。
どうしようもない絶望を込めて。
(どうして、彼だったの? 世界で一番優しくて、誰よりも生きるべきだった彼を、どうして奪ったの?)
(私の命なんていくらでも差し出すのに。どうして、私を残して彼を連れて行ったの?)
返事はない。
ただ、冷たい風が私の頬を撫でるだけ。
空はどこまでも高く、青く、無関心だった。
アレン。
あなたがいない世界なんて、広すぎて、寒すぎるわ。
一人じゃ、息もできない。
どうやって生きていけばいいの?
あなたのいない明日なんて、来る必要がないのに。
胸の奥から、熱い塊がせり上がってくる。
それは言葉にならない叫びとなって、喉を突き破った。
「あああああああああああああああああッ!!!!」
獣のような絶叫が、広場に響き渡った。
悲しみと、絶望と、喪失の叫び。
私の魂が千切れ飛び、血を流して泣いている。
抱きしめた腕に力を込める。
二度と離さないと誓うように。
けれど、腕の中のアレンはもう、私を抱き返してはくれない。
私の世界は、ここで終わった。
愛する人の死と共に、私の心も死んだのだ。
「アレン……アレン……ッ! 返して……私のアレンを返してよぉぉぉぉッ!!」
広場に響くのは、かつての聖女の慟哭だけ。
幸せだったはずのパレードは、血と涙に沈み、二度と戻らない時間を弔うかのように、風だけが虚しく吹き抜けていた。




