第23話 血塗られたパレード
王都セレスティアの空は、抜けるような青さだった。
大聖堂の鐘楼から放たれた祝福の鐘の音が、幾重にも重なり合って空気を震わせている。
カァン、カァン、カァン――。
その澄んだ音色は、長く続いた冬の時代が終わり、新しい春が訪れたことを告げるファンファーレだった。
巨大な扉がゆっくりと開かれる。
溢れんばかりの陽光と共に、俺たちの視界に飛び込んできたのは、王都の大通りを埋め尽くす民衆の海だった。
「うわぁぁぁぁっ!!」
「おめでとうございます!」
「英雄アレン様! 聖女シルヴィア様!」
割れんばかりの歓声。空を舞う無数の花びら。
紙吹雪が雪のように降り注ぎ、世界を極彩色に染め上げている。
俺は隣を歩くシルヴィアの手を、ギュッと強く握りしめた。
純白のウェディングドレスに身を包んだ彼女は、眩しいほどの光を浴びて、この世の何よりも美しかった。
銀の髪は光の輪をまとい、レースのベール越しに見える藍色の瞳は、宝石のように潤んでいる。
「……すごい人だね」
「ええ。……見て、アレン。みんな、笑ってるわ」
シルヴィアが感極まったように声を震わせる。
最前列で手を振る子供たち。涙を流して拝む老婆。肩を組んで歌う若者たち。
かつては恐怖に怯え、下を向いていた人々が、今はこんなにも屈託のない笑顔を見せている。
俺たちが泥にまみれ、血を流して守ろうとしたものは、確かにここにあったんだ。
俺たちは、用意されたオープンタイプの馬車へと乗り込んだ。
白馬が曳く豪奢な馬車だ。
御者台には、今日のために新調した礼服(巨体がはち切れそうで窮屈そうだが)を着たガルドが座っている。彼は誇らしげに胸を張り、手綱を握っている。
後ろの馬車には、花嫁の介添人として着飾ったミアが乗っているのが見えた。彼女はすでに化粧が崩れるほど泣きじゃくりながら、懸命に手を振っている。
「行くぞ、坊ちゃん! 今日はお前が世界の王様だ!」
ガルドの掛け声と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
パレードの始まりだ。
王宮へと続く大通りを抜け、広場を回って、国民に結婚の報告とお披露目をする。
それが終われば、俺たちは晴れて夫婦となり、愛するウィンスレット領へと帰るのだ。
馬車が進むにつれ、歓声は熱狂を帯びていく。
俺はシルヴィアの腰に手を回し、民衆に向かって手を振り続けた。
どこまでも続く笑顔の波。
平和だ。本当に、平和になったんだ。
ふと、シルヴィアが俺の方を向いた。
風に揺れるベールを押さえながら、彼女は幸せそうに目を細めた。
「ねえ、アレン」
「ん?」
「私、今、世界で一番幸せよ」
彼女の声は、鐘の音にも負けないほど澄んで聞こえた。
「王宮の鳥籠の中で震えていた私が、こんなにたくさんの人に祝福されて、愛する人の隣にいられるなんて……。まるで、奇跡みたい」
愛おしさがこみ上げ、胸が締め付けられる。
俺は彼女の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「奇跡なんかじゃない。君が頑張ったからだ。君が前を向いて歩いてきたから、この景色があるんだよ」
「……ううん。あなたが連れ出してくれたからよ」
彼女は俺の肩に頭を預けた。
「愛してる、アレン。……これからの人生、全部あなたにあげる。私の喜びも、悲しみも、命さえも。全部、あなたのものよ」
「俺もだ。……愛してる、シルヴィア。一生、君を守るよ。君が二度と涙を流さないように」
彼女がくすりと笑い、幸せそうに瞳を閉じた、その時だった。
――ゾクリ。
背筋に、冷たい氷柱を突き立てられたような、異質な悪寒が走った。
戦場で何度も死線をくぐり抜けてきた、本能的な警鐘。
歓喜と祝福に満ちた熱狂の渦の中に、一点だけ、混じり合わない異質な「色」がある。
どす黒く、粘りつくような、鋭利な殺意。
(……どこだ?)
俺は反射的に視線を巡らせた。
笑顔、笑顔、笑顔。花束、旗、紙吹雪。
どこを見ても平和な光景だ。誰もが俺たちを祝福している。
気のせいか? いや、違う。
俺の肌が、死の臭いを嗅ぎ取っている。
馬車が、交差点に差し掛かった瞬間だった。
沿道の人垣が、不自然に揺れた。
歓声の壁を突き破るように、一人の男が飛び出してきたのだ。
ボロボロのフードを目深にかぶり、その手には花束の下に隠していた短剣を握りしめている。
男の目は、俺を見ていなかった。
その濁りきった瞳が捉えているのは、俺の隣で無防備に微笑んでいる、純白の花嫁――シルヴィアだ。
(――ッ!!)
思考する時間はなかった。
世界がスローモーションになる。
男が腕を振り上げる。陽光を反射して、ギラリと光る凶刃。
それは、シルヴィアの心臓へと、一直線に吸い込まれようとしていた。
「危ないっ!!」
俺の体は、思考よりも速く動いていた。
シルヴィアを突き飛ばすように強く抱き寄せ、彼女と刃の間に、自分の体を割り込ませる。
背中を、男に向ける。
――ドスッ。
鈍く、湿った音が、体の芯に響いた。
一瞬の静寂。
歓声が遠のき、時間が止まったかのように感じる。
背中に、焼けるような熱さを感じた。
熱い。いや、寒い。
背中から胸の奥まで、灼熱の杭が貫通したような衝撃が突き抜ける。
「……ぐ、ぁ……っ」
肺の中の空気が、強制的に吐き出される。
口の中に、鉄の味が広がった。
俺はシルヴィアを抱きかかえたまま、前のめりに崩れ落ちた。
ガクン、と馬車が揺れる。
「……え?」
シルヴィアの、呆然とした声が聞こえる。
彼女の視線が、俺の胸元に釘付けになっている。
俺の白い礼服が、みるみるうちに赤く染まっていく。
そして、彼女の純白のドレスにも、赤黒いシミが、毒花のようにじわりと広がっていった。
俺の血だ。
「アレン……? アレン!?」
悲鳴のような声。
馬車が急停車し、ガルドの怒号が響く。
「貴様ァァァァッ!! 捕らえろ!!」
周囲の民衆がパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑う音。怒号。叫喚。
だが、それらの喧騒は、まるで水底にいるかのように遠く、くぐもって聞こえた。
世界が急速に冷えていく。
俺は馬車の床に倒れ込み、薄れゆく視界で、必死に腕の中を確認した。
シルヴィアは無傷だ。
顔色は蒼白で、瞳からは涙が溢れているけれど、刃は彼女には届いていない。
(……よかった)
安堵が、痛みを上書きしていく。
守れた。
俺の命に代えても守ると誓った、一番大切な人を。
「アレン! 嫌! 目を開けて! ねえ、嘘でしょう!?」
シルヴィアが俺の体を抱き起こす。
彼女の手が、俺の頬を叩く。その手は温かくて、震えていた。
彼女のドレスが、俺の血でどんどん赤く染まっていく。
ああ、いけない。せっかくの綺麗なドレスが台無しだ。
「医者を! 誰か、早く医者を呼んで!! アレンが、アレンが……ッ!」
彼女の悲痛な叫びが、鼓膜を揺らす。
泣かないでくれ。
今日は、最高に幸せな日のはずだろう?
君には、笑顔が一番似合うんだ。
手を伸ばして、その涙を拭ってやりたかった。
「かすり傷だ、大丈夫だ」と、いつものように笑いかけたかった。
けれど、指先一本、動かせない。
体中の熱が、傷口から流れ出していく。
「……し、る……ヴィ……ア……」
喉から漏れたのは、血の混じった、空気の漏れるような掠れた音だけ。
シルヴィアが顔を近づけてくる。
彼女の銀髪が、俺の顔にかかる。
「喋らないで! お願い、死なないで! 置いていかないでよ……!」
「ご……め、ん……」
ああ、悔しいな。
もっと、君と一緒にいたかった。
領地に戻って、パンを焼く君を見たかった。
花を育てて、庭をシロツメクサでいっぱいにして。
子供が生まれたら、ガルドに剣術を教えてもらって。
ミアが子守をして、また何かをひっくり返して笑い合って。
おじいちゃんとおばあちゃんになるまで、縁側で手を繋いでいたかった。
約束したのに。
一生守るって、ずっと隣にいるって、約束したのに。
嘘つきになってしまうな、俺は。
「……笑っ、て……」
俺は、残った命のすべてを振り絞って、言葉を紡いだ。
彼女に、呪いではなく、願いを残すために。
「き、みは……太陽、だ……。だから……」
視界が黒く塗りつぶされていく。
シルヴィアの顔が、涙で歪んで見えなくなる。
でも、彼女の手の温もりだけは、最期まで感じていたかった。
「生き、て……。俺の……ぶん、も……」
「嫌よ! あなたがいなきゃ意味がないの! アレン、アレンッ!」
「あい、して……る……」
最後に、その一言だけを伝えたくて。
俺は口元を、精一杯の笑顔の形に歪めた。
君がこの先、どんなに辛い時でも。
俺がどれだけ君を愛していたか、それだけは忘れないでいてほしかった。
――フッ、と。
体を繋ぎ止めていた糸が、切れた音がした。
痛みも、寒さも、音も、すべてが消え失せる。
ただ、愛おしさだけを残して。
青空の下、祝福の鐘の音は、いつしか弔いの鐘のように、遠く、遠く響いていた。




