第22話 幸せすぎた日
結婚式の前日は、これ以上ないほどの快晴だった。
雲ひとつない青空がどこまでも高く広がり、柔らかな陽光が王都の石畳を白く輝かせている。風は穏やかで、どこからか甘い花の香りを運んできた。
まるで世界そのものが、明日という日を祝福しているかのような、完璧な朝だった。
「アレン様ーっ! 起きてますかーっ!?」
静寂を打ち破る元気な声と共に、ドアが勢いよく開かれた。
予想通り、ミアだ。
彼女は両手に抱えきれないほどの花束を持っていて、前が見えていない。
「わわっ、足元が……!」
「おい、気をつけろよ」
俺がベッドから跳ね起きて支えるより早く、彼女は盛大にカーペットの縁につまずいた。
バサァッ!
色とりどりの花びらが宙を舞い、部屋中に散らばる。赤、白、黄色、ピンク。まるで俺の部屋に春が爆発したようだ。
「あうぅ……。またやっちゃいました……」
花まみれになったミアが、べそをかきながら顔を上げる。
「せっかくシルヴィア様のお部屋と、アレン様のお部屋に飾ろうと思って、朝市で一番いいお花を買ってきたのにぃ……」
その光景があまりにもおかしくて、俺は吹き出してしまった。
「ははは! 大丈夫だ、ミア。おかげで部屋が一気に華やかになったよ。これなら悪夢も見そうにない」
「むぅ、笑わないでくださいよぉ。……でも、綺麗ですね」
彼女もつられて笑い出す。
散らばった花びらの中に座り込んで笑い合う俺たちを、廊下を通りかかったガルドが呆れた顔で覗き込んだ。
「朝っぱらから何遊んでんだ。……明日は本番だぞ、新郎」
「分かってるよ。でも、緊張して強張ってるよりいいだろ?」
「違げえねえ。……ほら、手伝ってやるから片付けるぞ。シルヴィア様が見たら、花びらの絨毯を用意したのかと勘違いしちまう」
ガルドが大きな手で花を拾い集め始める。
かつては辺境の貧しい屋敷で、泥だらけになりながら床を拭いた仲間たち。
場所が王宮に変わっても、着ている服が少し上等になっても、俺たちの関係は何一つ変わっていない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
朝食を終えると、俺たちは最終確認のために大聖堂へと向かった。
王都の大通りは、明日の祝賀パレードの準備で活気に満ちていた。
建物の窓には「雪原の花」の紋章旗と、紅白のリボンが飾られている。
屋台からは香ばしい肉の焼ける匂いや、甘い菓子の香りが漂い、子供たちがはしゃぎ回っている。
「見て、アレン。みんな笑ってるわ」
隣を歩くシルヴィアが、フードの下で微笑んだ。
お忍びでの視察ということで、彼女は目立たないように平民風の衣服を身につけている。けれど、その内側から滲み出る幸福感は隠しようもなく、すれ違う人々が思わず振り返るほど輝いていた。
「ああ。……本当に、平和になったんだな」
俺は感慨深く街を見渡した。
数ヶ月前、ここは圧政に苦しみ、恐怖に震える街だった。
俺たちが剣を取り、血を流して勝ち取ったのは、この「当たり前の笑顔」だ。
パン屋の店主が客と談笑し、花屋の娘が歌を口ずさみ、老人がベンチで日向ぼっこをしている。
誰かに怯えることなく、明日を憂うことなく、ただ今日という日を楽しんでいる。
「ねえ、あのお店」
シルヴィアが指差した先には、小さな雑貨屋があった。
店頭には、揃いのマグカップや、可愛らしい刺繍の入ったクッションが並んでいる。
「新居にどうかしら? 辺境の屋敷に戻ったら、少し模様替えをしたいと思っていたの」
彼女の言葉に、俺の胸が温かくなる。
そう、俺たちの帰る場所は、あの辺境の屋敷だ。
王都での責務が落ち着いたら、俺たちは領地へ戻り、一領主と、その妻として生きていく。
「いいな。あの青いカップ、君の瞳の色に似てる」
「じゃあ、赤い方はあなたの情熱の色ね」
「……恥ずかしいことを言うなよ」
顔を見合わせて笑い、俺たちは店に入った。
店主の老夫婦は俺たちの正体に気づかず、「若いってのはいいねえ」と微笑ましげにオマケをつけてくれた。
買ったばかりの雑貨が入った紙袋を提げて歩く。
ただそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
剣を振るう重みではなく、生活の重み。
俺の手の中にあるのは、未来への希望そのものだった。
大聖堂でのリハーサルを終えた後、俺たちは王宮の庭園で遅い昼食をとることにした。
かつて、俺たちが脱出のために飛び降りた、あのテラスの下だ。
今は手入れの行き届いた芝生が広がり、色とりどりのバラが咲き乱れている。
「懐かしいわね。あの夜、ここを必死で走ったのが嘘みたい」
シルヴィアがバスケットからサンドイッチを取り出しながら言う。
彼女の手作りだ。少し形は不揃いだけど、具がたっぷりと挟まっている。
「あの時は必死だったからな。君を抱えて飛び降りた時、心臓が止まるかと思ったよ」
「ふふ。私、あのアレンの顔、一生忘れないわ。……必死で、怖がりで、でも誰よりも格好良かった」
彼女はサンドイッチを俺の口元に運んでくれた。
パクりとかぶりつく。卵とハムの素朴な味。
辺境での貧しい暮らしの中で、彼女がミアに教わりながら一生懸命覚えてくれた味だ。
「……うまい」
「よかった。明日の朝食も、私が作るわね。花嫁修業の成果を見せなきゃ」
「楽しみにしてるよ。……でも、無理はするなよ? 式典で倒れたら大変だ」
「もう、心配性ね。私は頑丈になったのよ? アレンと一緒に畑を耕したんだもの」
彼女は力こぶを作る仕草をして見せた。その腕は白く細いままだが、確かに以前より引き締まっている気がする。
俺はその腕を引き寄せ、自分の唇を押し当てた。
「シルヴィア」
「なぁに?」
「……ありがとう。俺を選んでくれて」
改めて口にすると、気恥ずかしさと共に、深い感謝が込み上げてくる。
公爵令嬢だった彼女が、名もなき男爵の俺を選び、泥にまみれる人生を受け入れてくれた。
その奇跡を、俺は一生かけて証明し続けなければならない。
君の選択は間違いじゃなかったと。君は世界で一番幸せな女性なのだと。
シルヴィアは少し驚いた顔をして、それから柔らかく目を細めた。
彼女の手が、俺の頬に触れる。
「私こそよ、アレン。……私を見つけてくれて、ありがとう」
彼女は俺の胸に顔を埋めた。
「私ね、今、怖いくらい幸せなの。……こんなに満たされて、不安になるくらい」
「不安?」
「ええ。……まるで、全部夢なんじゃないかって。目が覚めたら、あの冷たい王宮の部屋に一人でいて、全部幻だった……なんてことになったらどうしようって」
彼女の体が微かに震えている。
あまりに大きすぎる幸福は、時として人を臆病にさせる。
俺も同じだった。
この完璧な日々が、指の隙間から零れ落ちてしまうのではないかという、根拠のない恐怖。
だから俺は、彼女をより強く抱きしめた。
俺の体温を、鼓動を、存在のすべてを彼女に伝えるために。
「夢じゃない。絶対に、夢になんかさせない」
俺は彼女の耳元で囁いた。
「明日になれば、俺たちは夫婦になる。神の前で誓いを立てて、誰も引き裂けない絆で結ばれるんだ。……そうしたら、もう不安なんてなくなるさ」
「……そうね。明日は、私たちの始まりの日だものね」
シルヴィアが顔を上げ、涙ぐんだ目で微笑んだ。
俺はその涙を指先で拭い、彼女の唇に口づけを落とした。
甘く、優しく、そして長いキス。
風がバラの香りを運び、木漏れ日が二人を包み込む。
世界中が祝福してくれているようだった。
夕暮れ時。
明日の準備のために、俺たちはそれぞれの部屋に戻ることになった。
伝統に従い、結婚式前夜は新郎新婦が顔を合わせてはいけないという、ガルドやミアの強い主張に押し切られた形だ。
「じゃあ、また明日。……祭壇の前で」
部屋の前で、シルヴィアが名残惜しそうに手を振る。
「ああ。……明日の君は、きっと今日よりも綺麗なんだろうな」
「ふふ、ハードルを上げないで。……おやすみなさい、アレン」
「おやすみ、シルヴィア」
ドアが閉まる直前、彼女はもう一度振り返り、最高の笑顔を見せてくれた。
それは、俺の脳裏に永遠に焼き付くことになる、眩しすぎる笑顔だった。
部屋に戻った俺は、ベッドに横たわってもなかなか寝付けなかった。
興奮と、期待と、そして僅かな緊張。
天井を見上げながら、俺は未来を思い描いていた。
明日の結婚式。
領地へ戻ってからの新婚生活。
いつか生まれる子供たちの名前。
白髪になっても手を繋いで散歩する老後の日々。
すべてが輝いて見えた。
障害はもう何もない。ジェラルドは幽閉され、旧貴族派も鳴りを潜めている。国は安定し、俺たちの未来は洋々たるものだ。
そう信じて疑わなかった。
窓の外を見る。
満月が、静かに王都を照らしていた。
あの日、逃避行の夜に見た月と同じ、美しい月だ。
「……幸せになろうな、シルヴィア」
俺は独り言ちて、目を閉じた。
明日が来るのが待ち遠しかった。
最高の一日が、俺たちを待っているはずだった。
――運命の歯車が、音を立てて狂い始めるまで、あと数時間。
あまりにも静かで、あまりにも幸せすぎた夜。
それが、俺たちの最後の日々になるとは、神ならぬ身の俺には、知る由もなかった。




