第2話 黄金の鳥籠と迷い込んだ異物
視界を埋め尽くすのは、目が眩むほどの黄金の光だった。
頭上高くに吊るされた巨大なシャンデリアは、何千ものクリスタルガラスを揺らし、王宮の大広間を昼間のように照らし出している。
楽団が奏でる優雅なワルツの旋律。絹擦れの音。そして、むせ返るような香水と酒の匂い。
ここは、この国の頂点に立つ者たちが集う場所――王太子ジェラルド殿下が主催する、建国記念の夜会だ。
「……はあ。やっぱり、来るんじゃなかったな」
壁際の飾り柱の陰に身を潜め、俺――アレン・ウィンスレットは、誰にも聞こえない声で重いため息をついた。
手にしたグラスの中のワインは、口をつける気にもなれず、ただ手持ち無沙汰を紛らわせるためだけに揺れている。
俺の実家は、王都から馬車を飛ばして数日かかる北の辺境、ウィンスレット男爵領だ。
「男爵」といえば聞こえはいいが、実態は痩せた土地を耕す農民と大差ない。領民と共に泥にまみれ、明日の天気を気にする生活。それが俺の日常であり、誇りでもあった。
本来なら、こんな煌びやかな場所に縁などない。だが、当主である父が流行り病で床に臥せってしまい、招待状を無視するわけにもいかず、代理として送り込まれたのだ。
「ご覧になって? あれがウィンスレット家の……」
「ああ、あの田舎貴族か。着ている服も随分と古臭いな。カビの匂いがしそうだ」
「おやめなさい、聞こえますわよ。……くすくす」
扇子で口元を隠した貴婦人たちの、遠慮のない嘲笑がさざ波のように広がる。
慣れない礼服の襟元が、じっとりと汗ばむのを感じた。ここにいるだけで、酸素が薄くなったような錯覚に陥る。
彼らにとって俺は、美しい宝石箱に紛れ込んだ、泥のついた小石でしかない。
(早く終わってくれ……。俺は、あの静かな森と畑が恋しいよ)
逃げ出したい衝動をぐっと堪え、グラスのワインを一口だけ流し込む。苦い。安酒場のエールの方がよほど美味いと感じるのは、俺の舌が貧しいからだろうか。
その時だった。
ふと、会場の喧騒が、波が引くように一瞬だけ静まった気がした。
何事かと顔を上げ、人垣の隙間から広間の中央へと視線を向ける。
そこに、彼女がいた。
(……あ……)
息を呑む、というのはこういうことか。俺は瞬きをするのも忘れて、その姿に見入ってしまった。
透き通るような白磁の肌に、夜空から切り取った月光のような、銀色の長い髪。
身に纏っているのは、深い夜の色をした紺碧のドレスだ。派手な装飾は少ないのに、周囲の着飾った令嬢たちが霞んで見えるほど、圧倒的な気品と存在感を放っている。
シルヴィア・フォン・ローゼン。
国内でも有数の歴史を持つローゼン公爵家の令嬢であり、ジェラルド王太子の婚約者。
「聖女の再来」とも謳われるその美貌は、辺境の田舎貴族である俺の耳にも届いていたが、実物は噂など比較にならないほど鮮烈だった。
だが、俺が目を奪われたのは、その美しさだけではなかった。
(……どうして、あんな顔をしているんだ?)
彼女は微笑んでいた。完璧な、非の打ち所のない淑女の微笑みだ。
けれど、その藍色の瞳は凍りついたように冷たく、どこまでも虚ろだった。
周囲には多くの取り巻きがいるはずなのに、彼女の周りだけ、目に見えない氷の壁があるように見えた。誰も彼女の心には触れていない。誰一人として、彼女自身を見ていない。
彼女はただ、「次期王妃」という役割を演じるための美しい人形として、そこに置かれているようだった。
まるで、黄金の鳥籠に囚われた、孤独な青い鳥だ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
場違いな疎外感を感じていた俺は、勝手ながら、あの高貴な令嬢に自分と同じ種類の「孤独」を感じ取ってしまったのかもしれない。
その静寂を破るように、甲高いファンファーレが鳴り響いた。
「国王陛下、ならびにジェラルド王太子殿下の御成り!」
重厚な扉が開き、近衛兵に守られて王族たちが入場してくる。
その先頭を歩くのが、この国の次期国王、ジェラルド・アークライトだ。
金髪碧眼、鍛え上げられた体躯。まさに絵に描いたような王子様だが、その口元には常に傲慢な笑みが張り付いている。
そして、その腕には――シルヴィアではない、別の女性が寄り添っていた。
小柄で、甘ったるいピンク色のドレスを着た、どこか幼さの残る少女。男爵令嬢のマリアだとかいう噂を、さっき小耳に挟んだ気がする。上目遣いでジェラルドを見つめ、彼の腕に豊満な胸を押し付けるようにして歩いている。
会場がざわめき始める。
婚約者であるシルヴィアを差し置いて、別の女性をエスコートして現れるなど、前代未聞の無作法だ。
だが、ジェラルドは悪びれる様子もなく、シルヴィアの前まで歩み寄ると、足を止めた。
音楽が止まる。
数百人の視線が、王太子と、その正婚約者であるシルヴィアに突き刺さる。
好奇心、嘲笑、憐憫。粘つくような視線の中で、シルヴィアは動じなかった。
背筋をピンと伸ばし、ドレスの裾をつまんで静かにカーテシー(膝を折る礼)をする。その所作の一つ一つが、痛いほどに美しく、完成されていた。
「ごきげんよう、殿下」
鈴を転がすような、澄んだ声。
しかし、ジェラルドはその挨拶を無視し、広間中に響き渡る大声で宣言した。
「シルヴィア・フォン・ローゼンよ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
爆発したような衝撃が、会場を駆け抜けた。
どよめきがさざ波のように広がる中、俺はグラスを握りしめる手に思わず力を込めていた。
婚約破棄。
それは貴族の令嬢にとって、死刑宣告にも等しい屈辱だ。それを、こんな公衆の面前で、祝いの席で突きつけるなんて。
「……理由をお聞かせ願えますか、殿下」
シルヴィアの声は震えていなかった。顔色一つ変えず、ただ静かに王太子を見上げている。
だが、俺には見えた。
彼女がドレスの裾を掴む指先が、白くなるほど強く握りしめられているのを。
「理由だと? しらじらしい! 貴様が我が王家の威光を笠に着て、ここにいるマリアを虐げ、卑劣な嫌がらせを繰り返していたことは明白だ!」
「きゃっ……怖い……」
ジェラルドの隣で、ピンク色のドレスの少女――マリアが大げさに怯えた声を上げる。
ジェラルドは彼女の肩を抱き寄せ、まるで正義の騎士気取りでシルヴィアを睨みつけた。
「見ろ、この怯えようを! 貴様は教科書を隠したり、階段から突き落とそうとしたりしたそうだな! 心優しきマリアが、どれほど傷ついたと思っている!」
それを見た取り巻きの貴族たちが、待っていましたとばかりに一斉に嘲笑と非難の声を上げ始める。
「なんて恐ろしい女だ」
「見た目ばかり綺麗で、中身は夜叉か」
「やはりローゼン公爵家の娘は高慢でいけない」
「追放だ! 追放しろ!」
根拠のない悪意が、雪崩のように彼女へ降り注ぐ。
嘘だ。
俺は直感していた。あの瞳を見ればわかる。孤独に耐え、己の義務を果たそうとしていた彼女が、そんな低俗な真似をするはずがない。
これは、ただの茶番だ。邪魔になった正当な婚約者を排除し、新しい女を据えるための、卑劣なショーだ。
「身に覚えがございません」
シルヴィアは毅然と言い返した。声は凛としていたが、その横顔はあまりにも脆く見えた。
「証拠があるとおっしゃるなら、ご提示ください」
「黙れ! 貴様の醜い言い訳など聞きたくもない!」
ジェラルドは激情に任せて叫んだ。その顔は、自分の思い通りにならない玩具に癇癪を起こす子供そのものだった。
「さらに申し渡す! 貴様からはローゼン家の籍も、貴族としての特権もすべて剥奪する! 国外追放だ! その身一つで野垂れ死ぬがいい!」
会場から、残酷な笑い声が上がる。
誰も彼女を助けようとしない。彼女の父である公爵でさえ、王太子の不興を買うのを恐れてか、青ざめた顔で沈黙し、視線を逸らしている。自分の娘が、群衆の前で嬲り者にされているというのに。
世界中が、彼女の敵になったようだった。
たった一人、広間の中心に取り残された銀色の背中。
彼女は泣かなかった。取り乱しもしなかった。ただ、折れそうなほど細い体で、嵐のような悪意に耐えていた。
パキリ。
俺の手の中で、何かが砕ける音がした。
見ると、強く握りしめすぎたワイングラスに亀裂が入っていた。
(……ふざけるな)
心臓が、怒りで熱く脈打つ。
田舎者だと? 下級貴族だと? だから何だ。
俺たちの領地では、男も女も、共に汗を流し、共に笑い、困った時は助け合うのが当たり前だ。
こんな……一人の女性を大勢で寄ってたかって踏みにじるような真似が、「貴族の嗜み」だと言うなら。
そんなもの、クソ食らえだ。
俺は踏み出した。
理性のブレーキが、「やめろ、家が潰れるぞ」「父さんに迷惑がかかるぞ」と警告するのを無視して。
壁際の闇から、光の当たる場所へ。嘲笑の渦の中心へ。
人垣を乱暴にかき分けると、貴族たちが驚いたように道を開ける。
「な、なんだ?」
「あの田舎者が、何を……」
俺はまっすぐに歩いた。
靴音が、不自然なほど大きく響く。
ジェラルド王太子の前へ。
そして、震える背中を見せていたシルヴィアの隣へ。
「――そこまでです、殿下」
自分の声が、思ったよりも低く、そして大きく響いたことに驚いた。
会場の嘲笑がピタリと止まり、空気が凍りつく。
ジェラルドが、信じられないものを見る目で俺を睨みつけた。
「誰だ、貴様は」
無数の視線が俺に突き刺さる。殺気。蔑み。好奇心。
恐怖で足がすくみそうになる。心臓が口から飛び出しそうだ。
けれど、隣にいる彼女の存在が、俺をこの場に縫い止めた。
俺は一歩前に出て、シルヴィアを背に庇うようにして立った。
彼女から漂う微かな薔薇の香りが、恐怖を忘れさせてくれる気がした。
「辺境のウィンスレット領当主代理、アレン・ウィンスレットと申します」
俺は王太子を真っ直ぐに見据えた。
握りしめた拳の中には、砕け散ったグラスの破片が食い込み、一筋の血が流れていた。
これが、俺とシルヴィアの運命が交錯した瞬間。
そして、この国を揺るがすことになる、長い長い物語の始まりだった。




