第16話 広がる波紋
渓谷での勝利から、一週間が過ぎた。
その日、俺は屋敷の執務室で、頭を抱えていた。
いや、頭を抱えるという表現は正確ではない。嬉しさと、困惑と、責任の重さに押しつぶされそうになっていたのだ。
「アレン様! また来ました! 今度は西の炭鉱街からです!」
ミアが扉を蹴破る勢いで飛び込んでくる。
彼女の手には、走り書きされた羊皮紙の束が握られている。
「今度は何人だ?」
「三十人です! 坑夫の方々が、ツルハシを持って駆けつけてくれました!」
「三十人か……。昨日の元傭兵団と合わせれば、これで五百を超えたな」
俺は溜息交じりに、けれど口元の笑みを隠せずに呟いた。
あの奇跡のような勝利の噂は、俺たちの予想を遥かに超える速度で国中を駆け巡っていた。
――辺境の小領主が、農民と共に立ち上がった。
――知恵と勇気で、無敵の王都軍を打ち破った。
――そこには、「本物の聖女」がいるらしい。
吟遊詩人が歌い、行商人たちが語り継ぐその物語は、ジェラルド王太子の圧政に絶望していた人々の心に、強烈な火を点けたのだ。
「アレン、休憩している暇はないわよ」
隣の机で、シルヴィアが凄まじい速度でペンを走らせている。
彼女の目の前には、物資の在庫リスト、新参者の名簿、周辺領主への書状が山積みになっていた。
目の下に薄っすらと隈ができているが、その瞳は爛々と輝いている。
「人が増えるのは良いことだけれど、食料と寝床の確保が急務だわ。炭鉱夫たちには西側の斜面の整地をお願いしましょう。彼らなら即席の宿舎くらい一日で作れるはずよ」
「さすがだな。……無理はしていないか?」
「まさか。こんなに『生きている』実感があるのは初めてよ」
彼女は不敵に笑い、インク壺にペンを浸した。
この一週間、彼女は文字通り不眠不休で働いている。
集まってくる義勇兵たちの適性を見極め、組織化し、補給線を維持する。彼女の卓越した事務処理能力がなければ、ウィンスレット領はとっくに難民キャンプのような混乱に陥っていただろう。
「若様! ちょっと来てくだせえ! とんでもないのが来やがった!」
窓の外から、ガルドの太い声が響いた。
俺とシルヴィアは顔を見合わせ、慌てて外へと飛び出した。
***
屋敷の前庭には、異様な熱気が渦巻いていた。
村人たちや、すでに合流していた義勇兵たちが、ざわめきながら道を開けている。
その先にいたのは、一団の騎士たちだった。
泥と埃にまみれ、鎧は傷だらけだが、その所作には隠しきれない規律と誇りがある。
先頭に立つ男が、馬を降りて俺の前に歩み寄ってきた。
精悍な顔つきに、眼光鋭い双眸。その胸には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
「……王都の、近衛騎士団か?」
俺が警戒して剣の柄に手をかけると、ガルドが前に出ようとする。
だが、男は敵意を見せるどころか、その場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「お初にお目にかかります、アレン・ウィンスレット殿。……私は元王宮近衛騎士、ライオットと申します」
周囲がざわつく。ライオットといえば、剣の腕で王都にその名を轟かせる猛者だ。
「元、だと?」
「はい。ジェラルド王太子の暴虐には、もはや我慢がなりません。民を守るべき剣で、民を虐げる日々……。騎士としての誇りは、泥にまみれました」
ライオットは悔しげに拳を握りしめ、そして顔を上げて俺を真っ直ぐに見た。
「そんな折、貴殿の噂を聞きました。愛する人を守るため、民と共に立ち上がった英雄の話を。……厚かましい願いとは承知しておりますが、どうか我ら二十名、貴殿の剣として加えてはいただけないでしょうか」
彼は腰の剣を外し、俺の足元に差し出した。
それは、騎士にとって命よりも重い、服従の証だ。
「アレン様! こいつらは本物だぜ!」
ガルドが興奮して叫ぶ。「こいつらがいりゃあ、農民たちにまともな剣術を教え込める!」
俺はライオットの肩を掴み、立たせた。
「頭を上げてください、ライオット殿。俺は英雄なんかじゃない。ただの、わがままな男です」
「いいえ。民のために王家に弓引く覚悟を持つ者を、我々は英雄と呼びます」
ライオットの瞳に、熱い光が宿る。
彼だけではない。後ろに控える騎士たちも、そして周りを取り囲む義勇兵たちも、皆、俺を――いや、俺たちの「旗」を見つめていた。
その時、丘の上から歓声が上がった。
「見ろ! また来たぞ!」
「今度は商隊だ!」
街道の向こうから、長い車列が近づいてくるのが見えた。
荷馬車には山積みの食料や武器、毛布が積まれている。
先頭の馬車から降りてきたのは、派手な服を着た恰幅の良い女性だった。南部の商業都市で顔役を務める大商人だ。
「あらあら、随分と賑やかだこと! アレン様、先行投資に来ましたわよ!」
彼女は扇子を広げて高らかに笑った。
「ジェラルド殿下の増税にはもううんざり! あなたが勝てば関税撤廃、負ければ夜逃げ! 私の全財産、この革命に賭けさせてもらうわ!」
次々と集まる人々。
虐げられた農民、職を失った傭兵、誇りを傷つけられた騎士、自由を求める商人。
彼らは皆、希望を求めてこの辺境の地へと辿り着いたのだ。
「……すごい」
隣で、シルヴィアが声を震わせた。
「アレン、見て。……これが、あなたが起こした風よ」
彼女の言う通りだった。
俺が「君を守りたい」と願って灯した小さな火が、いつの間にか国中を巻き込む巨大な炎になろうとしている。
もう、後戻りはできない。
俺は、彼らの希望を背負ってしまったのだ。
俺は屋敷の階段を一段上り、集まった人々を見渡した。
千に近い瞳が、俺を見ている。
「みんな! よく来てくれた!」
俺は声を張り上げた。
「ここには、王都のような贅沢はない! あるのは粗末な飯と、凍えるような風、そして強大な敵との戦いだけだ!」
静寂。誰も言葉を発しない。
「だが! ここには『自由』がある! 理不尽な命令に頭を下げる必要はない! 俺たちは、自分の足で立ち、自分の意志で生きる!」
俺は拳を突き上げた。
「俺たちはもう、逃げ隠れする反逆者じゃない! この腐った国を洗濯し、新しい夜明けを呼ぶ『革命軍』だ!!」
――オオオオオオオオオッ!!
地鳴りのような歓声が、ウィンスレットの空に響き渡った。
誰もが拳を突き上げ、涙を流し、隣の者と肩を叩き合っている。
その熱狂の中心で、俺はシルヴィアを見た。
彼女は、これ以上ないほど誇らしげに、そして愛おしげに俺を見つめ、静かに頷いた。
(……行こう、シルヴィア)
もはや、領地を守るだけの戦いではない。
これは、国を獲る戦いだ。
愛する人を、そして俺を信じてくれた全ての人々を守るために。
俺たちは、王都へ向かう。
「全軍、進撃の準備を! 目指すは王都、ジェラルドの首だ!」
革命の炎は、今まさに燃え広がろうとしていた。




