第14話 迫り来る鉄蹄
夜明け前の空は、血のように赤く染まっていた。
それは朝焼けではない。地平線の彼方で揺らめく、無数の松明の光が雲を焦がしているのだ。
ウィンスレット領の南、王都へと続く街道を扼する狭い渓谷。
俺たちはその両側の崖上に陣取り、息を潜めていた。
「……おい、見ろよ。あんなにいるのかよ」
隣で伏せていた若者――数日前まではただの木こりだった男が、震える声で呟いた。
眼下を行く街道の先に、黒い奔流が見える。
王都から派遣された討伐軍の先遣隊だ。
整然と隊列を組んだ騎兵、槍の穂先を光らせる歩兵、そして物資を積んだ荷馬車。
その数は、優に五百を超えているだろう。
対する俺たちは、百五十人。
武器は農具を改造した槍や、狩猟用の弓矢。鎧などなく、厚手の革服を着ているだけだ。
真正面からぶつかれば、一瞬で蹂躙される。
誰の目にも明らかな絶望的な戦力差に、冷や汗が背中を伝った。
「ビビってんじゃねえぞ!」
低い怒鳴り声が、空気を震わせた。ガルドだ。
彼は巨大な戦斧(もとは大木の根を切るための道具だ)を担ぎ、震える若者たちの背中をバシバシと叩いて回っている。
「相手は所詮、金で雇われた兵隊か、嫌々連れてこられた徴募兵だ! こっちは守るもんがある! 気合で負けてどうすんだ!」
「そ、そうっすよね……! やるしかねえ!」
ガルドの剛胆さに励まされ、少しだけ空気が緩む。
だが、恐怖が消えたわけではない。
俺自身、膝が震えるのを止めるのに必死だった。
もし失敗すれば、全員死ぬ。村は焼かれ、シルヴィアは連れ去られる。
その責任の重さが、鉛のように肩にのしかかっていた。
「アレン」
ふと、冷たい風と共に、鈴のような声が耳に届いた。
振り返ると、シルヴィアが立っていた。
彼女はフードを目深にかぶり、目立たない色のマントを羽織っている。戦場に女がいると知られれば標的になるため、変装しているのだ。
けれど、フードの下の瞳は、どんな星よりも強く輝いていた。
「どうした? 本陣にいてくれと言ったのに」
「じっとしていられなくて。……それに、あなたに渡したいものがあって」
彼女は懐から、布に包まれた何かを取り出した。
包みを開くと、そこには二つの小さな「お守り」が入っていた。
村の女性たちが、夜なべして作ってくれたものらしい。不格好な刺繍で、ウィンスレット家の紋章である『雪原の花』が縫い付けられている。
「これを」
彼女は一つを俺の胸ポケットに入れ、もう一つを自分の胸に押し当てた。
「私たちが離れ離れにならないように。……必ず、二人で帰るために」
その指先が、俺の服をギュッと掴む。
言葉にしなくても伝わってくる。彼女もまた、怖いのだ。
俺を失うことが。この幸せな日々が終わってしまうことが。
「……大丈夫だ」
俺は彼女の手を包み込み、自分の胸に押し当てた。
心臓の鼓動が、彼女の掌を通して伝わっていく。
「俺は死なない。絶対に君を置いていったりしない。この心臓が動いている限り、俺は君の盾になり、剣になる」
「アレン……」
「見ていてくれ。俺たちが、どうやって運命を変えるかを」
俺は彼女を抱き寄せ、フード越しに額を合わせた。
互いの熱を感じ合う。
この温もりがある限り、俺は無敵になれる気がした。
「そろそろだ……!」
見張り役のトム爺さんが、しわがれた声で警告を発した。
敵軍の先頭が、渓谷の入り口――俺たちが「キルゾーン(殺害地帯)」と定めた場所へと差し掛かろうとしている。
俺はシルヴィアから離れ、崖の縁に立った。
眼下には、威圧的な行軍。
先頭を行く指揮官らしき男が、高慢な態度で周囲を見回しているのが見える。
彼らはまだ気づいていない。
この静かな渓谷が、彼らの墓場になるかもしれないことを。
「シルヴィア、下がっていてくれ」
「……ええ。武運を、アレン」
彼女は短く告げ、後方の安全地帯へと身を引いた。
その背中を見送り、俺は大きく息を吸い込んだ。
肺いっぱいに冷たい空気を満たし、腹の底に力を込める。
震えは止まった。
あるのは、研ぎ澄まされた集中力と、燃えるような闘志だけ。
ガルドと目が合う。彼はニヤリと笑い、親指を立てた。
周囲の領民たちも、農具を握りしめ、俺の合図を待っている。
彼らはもう、ただの農民ではない。
愛するものを守るために立ち上がった、誇り高き「革命軍」だ。
敵の隊列が、完全に谷間に入った。
狭い一本道。左右は切り立った崖。
逃げ場はない。
俺は右手を高く掲げた。
朝焼けの光が、指先を照らす。
これが、始まりだ。
俺たちの「未来」を勝ち取るための、最初の一撃。
「――撃てぇッ!!」
俺が腕を振り下ろした瞬間。
静寂は破られ、轟音が谷を揺らした。
崖の上に仕掛けていた留め具が外され、巨大な岩石や丸太が、雪崩のように敵軍の頭上へと降り注ぐ。
悲鳴。怒号。馬のいななき。
平和だった渓谷が、一瞬にして修羅場へと変わる。
だが、俺は目を逸らさなかった。
これは正義の戦いではないかもしれない。俺たちは生きるために、人を殺すのだ。
その罪も、痛みも、すべて背負って生きていく。
シルヴィアと共に。
「突撃ィィィッ!」
岩石の雨が止むと同時に、俺は剣を抜き、崖を駆け下りた。
後に続く百五十の咆哮が、王都の兵士たちを恐怖の底へと叩き落とす。
戦いの火蓋は切って落とされた。
もう、誰にも止められない。




