第12話 泥だらけの誓い
王都からの使者が乗った馬車が、土煙を上げて去っていく。
その姿が地平線の彼方に消えるまで、俺たちは誰一人として動くことができなかった。
静寂が痛い。
晩秋の冷たい風が、汗ばんだ背中を撫でていく。
俺は、やってしまったのだ。
一時の感情に任せて、王家の使者に剣を向け、あろうことか宣戦布告までしてしまった。
これはもう、言い逃れができない「反逆」だ。
明日には、いや数日後には、間違いなく討伐軍が差し向けられるだろう。
「……アレン」
足元で、震える声がした。
俺の腰に縋り付くようにして座り込んでいたシルヴィアが、蒼白な顔を上げる。
その藍色の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。
「どうして……どうして、あんなことを……」
「シルヴィア……」
「私を差し出せばよかったのよ! そうすれば、少なくとも命だけは助かったかもしれないのに! どうして……私のために、あなたや皆が死ぬ道を選ぶの!?」
彼女の悲痛な叫びが、胸を抉る。
彼女は優しい。優しすぎるのだ。
自分の身が可愛くないわけがない。王都へ戻されれば、どんな屈辱と絶望が待っているか、彼女が一番よく知っているはずだ。
それでもなお、俺たちを守るために自分を犠牲にしようとした。
俺は膝をつき、彼女の肩を掴んだ。
「違う、シルヴィア。勘違いしないでくれ」
「何が違うのよ! 現実を見て! 相手は国よ!? 勝てるわけがないわ!」
「勝てるかどうかじゃない。……奴らは最初から、俺たちを生かす気なんてなかったんだ」
俺は努めて冷静に、先ほどの使者の言葉を反芻した。
「『収穫の八割』だぞ? そんなものを奪われたら、この領地の人間は冬を越せずに全滅する。君を差し出したところで、奴らは約束なんて守らないさ。面白半分に屋敷を焼き、領民を虐げ、最後には俺たちを処刑していただろう」
ジェラルド王太子の性格は、夜会での一件でよく分かった。
彼は、自分に逆らう者、自分の思い通りにならない者を徹底的に踏みにじらなければ気が済まない男だ。慈悲など期待するだけ無駄だ。
「座して死ぬか、戦って死ぬか。……選択肢は二つしかなかった。だったら俺は、君を守って戦う道を選ぶ。君をあんな男の元へ返すくらいなら、この命ごと燃え尽きたほうがマシだ」
俺の言葉に、シルヴィアは唇を噛み締め、嗚咽を漏らした。
彼女の震えが止まらない。恐怖と、絶望と、そして深い愛情がない交ぜになった涙。
その時だった。
「若様のおっしゃる通りだべ」
しわがれた、けれど力強い声が響いた。
顔を上げると、屋敷を取り囲んでいた領民たちが、じりじりと距離を詰めてきていた。
先頭に立っていたのは、古参の農夫、トム爺さんだ。
「あんなふざけた要求、呑めるわけがねえ。俺たちが汗水垂らして作った麦を、全部よこせだと? ふざけるにも程がある」
「そうだ! 俺たちの食い扶持を奪うなら、相手が王様だろうが盗賊だろうが同じだ!」
「やってやろうぜ! どうせ飢え死にするなら、一発殴ってやらなきゃ気が済まねえ!」
若者たちが、手に持った鍬や鎌を振り上げる。
彼らの目には、恐怖よりも強い「怒り」が宿っていた。
辺境の民は強い。
厳しい自然と、魔物の脅威に晒されながら生きてきた彼らにとって、「生きるための戦い」は日常の延長線上にある。
「それに……」
村娘の一人――ミアの幼馴染のリナが、一歩進み出た。
「私たち、シルヴィア様を渡すなんて絶対に嫌です!」
「リナ……」
「シルヴィア様は、私たちのために泥だらけになって働いてくれたじゃないですか! あんな高貴な方が、私たちの手を握って『ありがとう』って言ってくれた……。そんな人を、あんな嫌な奴らに渡せるわけないです!」
「そうだそうだ!」
「シルヴィア様を守れ!」
「俺たちの領主様とシルヴィア様に手出しはさせねえぞ!」
声が、波のように広がる。
誰も、俺を責めてはいなかった。
誰も、シルヴィアを疫病神だなんて思っていなかった。
彼らは本気で、俺たちと共に戦おうとしてくれているのだ。
「みんな……」
シルヴィアが、呆然と周囲を見回す。
涙で濡れた瞳に、領民たちの、泥だらけだが力強い笑顔が映り込んでいる。
俺は立ち上がり、シルヴィアの手を引いて立たせた。
そして、彼女の背中を支えながら、領民たちに向き直った。
「みんな、聞いてくれ! 俺のわがままで、この領地を戦火に巻き込むことになってしまった。本当にすまない!」
俺は深く頭を下げた。
けれど、すぐに顔を上げ、声を張り上げる。
「だが、俺は後悔していない! 理不尽に奪われるだけの人生なんて御免だ! 俺たちは人間だ! 家畜じゃない! 俺たちには、自分の大切なものを守る権利があるはずだ!」
オオオオオッ! と、どよめきにも似た歓声が上がる。
俺はシルヴィアの手を高く掲げた。
「俺は、この人を愛している! そして、この領地を、みんなを愛している! だから戦う! 勝てる保証なんてない。地獄を見るかもしれない。……それでも、ついてきてくれるか!」
「応ッ!!」
「当たり前だ若様!」
「ウィンスレットに栄光あれ!」
割れんばかりの歓声。
農具が打ち鳴らされ、熱気が渦を巻く。
それは、小さな反乱の狼煙だった。
その熱気の中で、シルヴィアの手が、俺の手を強く握り返してきた。
横を見ると、彼女はもう泣いていなかった。
涙の痕はそのままに、その瞳には、かつて執務室で見せたあの「軍師」の光が宿っていた。
「……アレン」
「ん?」
「私、間違っていたわ。守られるだけじゃ、何も変わらない」
彼女はスカートの裾を無造作に払い、凛と顔を上げた。
「勝ちましょう、アレン。……勝算は、ゼロじゃないわ」
***
その夜。屋敷の大広間は、即席の作戦会議室となっていた。
集まったのは、俺とシルヴィア、ガルド、そして村の顔役たちだ。
中央のテーブルには、領地の地図が広げられている。
「敵の戦力は?」
シルヴィアの声は、冷徹なほど落ち着いていた。
先ほどまでの泣き顔が嘘のように、彼女は完全に「指揮官」の顔つきになっている。
ガルドが腕組みをして答える。
「王都からの討伐軍となれば、正規騎士団が出てくるでしょう。少なく見積もっても五百、本気なら千は超えるかと」
「対するこちらの戦力は?」
「動ける男衆を集めても百五十人。武器は農具と、自警団用の槍や弓が少々。……まともにぶつかれば、一時間で全滅です」
絶望的な数字だ。村役たちが顔を青ざめさせる。
だが、シルヴィアは動じなかった。
彼女は地図の上でペンを走らせ、いくつかの地点に印をつけていく。
「正面から戦えば、ね。でも、彼らは『軍隊』よ。大軍であればあるほど、弱点も生まれるわ」
「弱点?」
「ええ。補給と、地形よ」
彼女の指が、領地へと続く一本の街道をなぞる。
そこは切り立った崖と森に挟まれた、難所中の難所だ。
「王都の騎士たちは、平地での戦いには慣れているけれど、こういう山岳地帯での行軍は苦手なはず。それに、大軍を維持するには大量の食料が必要になるわ。……アレン、この渓谷の入り口、封鎖できる?」
「ああ、あそこなら落石の仕掛けを作れる。ガルド、木こりたちを集めてくれ」
「へっ、お安い御用だ」
シルヴィアの作戦は、徹底した「遅滞戦術」と「ゲリラ戦」だった。
敵の大軍を狭い地形に誘い込み、数え切れないほどの罠と奇襲で疲弊させる。
勝つためではない。負けないための戦い。
時間を稼ぎ、相手の戦意をくじくための、弱者の兵法。
「でも、それだけじゃジリ貧だわ。時間を稼いでいる間に、私たちには『味方』が必要なの」
「味方? こんな反逆者に加勢する奴がいるのか?」
「いるわ」
シルヴィアは断言し、地図の周辺にあるいくつかの領地を指差した。
「ジェラルド殿下の暴政に苦しんでいるのは、私たちだけじゃない。隣のベルン男爵、南の交易都市の商人ギルド、そして……西方でくすぶっている元将軍たち。彼らは皆、切っ掛けを待っているはずよ」
彼女は俺を見た。
その瞳は、かつてないほど強く輝いていた。
「アレン。あなたが『旗印』になるの。……ただの反乱じゃない。これは、腐敗した国を正すための『義戦』だと、世界中に知らしめるのよ」
書状を書くわ、と彼女は新しい羊皮紙を取り出した。
その背中は、ドレスを着ていた頃よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
俺は、武震いする拳を抑え、深く息を吸い込んだ。
怖い。足がすくむほど怖い。
けれど、隣に彼女がいるなら。この頼もしい仲間たちがいるなら。
やれる。
「……ああ。やってやろう、シルヴィア。俺たちの未来を、この手で掴み取るんだ」
ランプの炎が、夜明けまで消えることはなかった。
泥だらけの英雄と、ドレスを捨てた聖女。
二人が紡ぐ革命の物語が、今まさに始まろうとしていた。




