第10話 星降る丘の約束
祭りの喧騒が、遠い潮騒のように聞こえていた。
俺たちは手を繋ぎ、息を切らせて丘を登りきった。
ここは領地で一番高い場所。昼間は畑や森を一望できるその場所は今、降るような星空の下でひっそりと静まり返っている。
「……ふふ、あんなに走ったの、逃避行の夜以来ね」
シルヴィアが胸を押さえ、楽しそうに笑う。
乱れた銀髪が夜風に揺れ、月光を浴びてキラキラと輝いている。頬の紅潮は運動のせいか、それとも酔いのせいか。
どちらにせよ、今の彼女は、この世の何よりも美しかった。
「ああ。でも、あの時とは違う」
俺は彼女の隣に立ち、眼下に広がる村を見下ろした。
闇の中に浮かぶ、無数の松明の灯り。そこから立ち上る煙と、かすかに聞こえる笑い声や音楽。
あの夜、俺たちは「追われる者」として闇の中を走った。
けれど今は、守るべき「帰る場所」を見下ろしている。
「……綺麗ね」
シルヴィアが呟いた。
「王都の夜景は、もっと煌びやかだったわ。宝石を撒き散らしたみたいに。でも……ここの灯りの方が、ずっと温かい気がする」
彼女は俺の方を向き、その瞳に俺を映した。
藍色の瞳の中にも、満天の星が宿っているようだった。
「私、ここに来て本当によかった。アレン、あなたのおかげで、私は初めて『生きている』って感じられたの」
その言葉が、俺の胸を締め付ける。
感謝したいのは俺の方だ。
彼女がいなければ、この領地は冬を越せずに潰れていただろう。俺もまた、無力感に押しつぶされていたかもしれない。
彼女が俺を「領主」にしてくれた。俺を「男」にしてくれた。
風が吹き抜け、彼女が小さく身震いした。
俺は無言で彼女の肩を抱き寄せ、自分の体温を分けた。
華奢な肩。触れれば折れてしまいそうなほど細いのに、その内側には鋼のような強さを秘めている。
(……今しか、ない)
心臓が、早鐘を打つ。
戦場で剣を構える時よりも、はるかに緊張していた。
俺はポケットの中に手を入れ、ずっと隠し持っていた「それ」を握りしめた。
「シルヴィア」
「なぁに?」
俺は彼女の前に立ち、その両手を取った。
泥と日焼けで少し荒れた、けれど世界で一番愛おしい手。
「俺は……しがない田舎貴族だ。剣の腕と、土を耕す体力くらいしか取り柄がない。君が王宮で受けていたような扱いは、一生してやれないかもしれない」
言葉が詰まる。もっと格好いい台詞を用意していたはずなのに、頭が真っ白だ。
でも、飾るのはやめた。
今の俺にあるのは、この身一つと、溢れ出しそうな想いだけだ。
「ドレスも、宝石も、贅沢な料理も……すぐには用意できない。これからも苦労をかけると思う。君のその綺麗な手を、もっと汚させてしまうかもしれない」
シルヴィアは何も言わず、ただ静かに俺を見つめている。
俺は深呼吸をして、続けた。
「でも、約束する。……君を、絶対に一人にはしない」
俺はポケットから、小さな指輪を取り出した。
それは、昼間の休憩時間に、俺がこっそりと編んだものだ。
野に咲く白いシロツメクサと、丈夫な蔦を編み込んで作った、不格好な指輪。
宝石などついていない。市場で売れば銅貨一枚にもならないだろう。
けれど、それを見た瞬間、シルヴィアが息を呑むのが分かった。
「俺の命が続く限り、君を守る。君が泣く時は俺が涙を拭うし、君が笑う時は俺も隣で笑う。……君の居場所を、俺が守り抜く」
俺は片膝をつき、その指輪を掲げた。
王太子に仕える騎士の礼ではない。
一人の男として、愛する女性に捧げる、最初で最後の求婚の姿勢。
「シルヴィア・フォン・ローゼン。……いや、シルヴィア」
俺は震える声で、問いかけた。
「俺と、結婚してくれませんか。……一生、俺のそばで生きてほしい」
時が止まったようだった。
風の音も、祭りの喧騒も、すべてが遠のいていく。
世界には今、俺と彼女、二人しかいない。
シルヴィアの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは頬を伝い、顎から滴り落ちて、星屑のように輝いた。
「……ずるいわ、アレン」
彼女は泣き笑いのような表情で、震える声を絞り出した。
「そんな……野の花の指輪なんて。王宮のどんなダイヤモンドよりも……素敵じゃない」
彼女は右手を差し出した。
その薬指が、微かに震えている。
「……はい。……はいっ!」
俺は震える手で、彼女の薬指に指輪を通した。
サイズは少し大きかったけれど、白い花は彼女の指によく似合っていた。
彼女の手を握りしめ、立ち上がる。
シルヴィアが、飛び込むように俺の胸に抱きついてきた。
「嬉しい……! 私、こんなに幸せでいいのかしら……!」
「いいに決まってる。君は誰より幸せになる権利があるんだ」
俺は彼女を強く抱きしめ返した。
華奢な体。甘い香り。ドクドクと伝わってくる鼓動。
そのすべてが、俺のものだ。そして俺のすべては、彼女のものだ。
「愛してる、シルヴィア」
「私も……愛してるわ、アレン。世界で一番、愛してる」
彼女が顔を上げる。
涙に濡れた瞳が、月明かりを反射して潤んでいる。
俺は吸い寄せられるように顔を近づけ――そっと、唇を重ねた。
柔らかく、温かい感触。
しょっぱい涙の味がした。けれどそれは、どんな美酒よりも甘美だった。
夜空には、満天の星が輝いている。
まるで、俺たちの誓いを祝福する、無数の光のシャワーのように。
「……帰ろうか、俺たちの家に」
「ええ。……あなたと一緒なら、どこへでも」
俺たちは手を繋ぎ、丘を降り始めた。
指に嵌められたシロツメクサの指輪が、白く浮かび上がっている。
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。
この幸せが、永遠に続くと信じていた。
貧しくとも、困難があろうとも、二人なら乗り越えられると。
この手を離すことなど、死ぬまであり得ないと。
そう、信じていたんだ。
――だが、運命は残酷だった。
この丘の向こうから、黒い影が忍び寄っていることに、俺たちはまだ気づいていなかった。
王都からの使者。
理不尽な暴力。
そして、血塗られた未来が、すぐそこまで迫っていた。




