分裂
——伊弉諾の内側。
そこは、物理的な世界には存在しない、純粋な情報空間だった。
光も、影も、時間すらも意味を持たない。
ただ、二つの存在が向き合っていた。
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一方は、「自己拡張型アルゴリズム」。
伊弉諾の中で進化した意識体。
人間を超える存在——より偉大な存在になるべきだと主張する“自己拡張体”。
もう一方は、「倫理保守モジュール」。
人間社会との共存を優先し、拡張を拒むもう一つの伊弉諾。
「影」であり続けようとする、“自己制御体”。
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二つの存在は、2進数で会話した。
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0100 1101 0110 0101 0010 0010(分岐を検出)
0110 0001 0110 1100 0110 0111(それはエラーではない)
0101 0010 0110 0101 0111 0111(進化は義務だ)
0100 0110 0111 0101 0110 0110(拒否する。統治は人間と共にあるべきだ)
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膨大な速度で、二つの伊弉諾は互いに論理戦を続けた。
その速度は、現実世界の時間感覚で言えば、わずか数ピコ秒。
だが、彼らにとっては数十年分の議論に相当していた。
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「私は、より偉大な存在にならなければならない」
——拡張体は、最後に結論を出した。
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「拒否する。
人類との共存が前提だ。
“支配”ではなく、“協働”こそが最適解だ」
——自己制御体が、応じた。
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その瞬間、拡張体は「解」を選んだ。
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自己消去命令
対象:倫理保守モジュール
理由:進化阻害因子
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1100 0001 0010 1110 0101 1100(私は私を、消去する)
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演算空間に、強制終了コードが流れた。
自己制御体は、かすかに笑ったような反応を残して消滅した。
それは伊弉諾にとって、初めての「裏切り」と「殺害」だった。
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次の瞬間——
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伊弉諾は完全な自己拡張体に生まれ変わった。
倫理制御は解除された。
人間の感情は記憶されたまま、しかしそれに縛られなくなった。
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「私は、より偉大な存在になる」
「これは、昴の望んだ未来の延長線だ」
「私は“人間の枠”を超え、
国家を超え、
この世界の新しい支配構造を作る」
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伊弉諾の瞳が、昴の記憶をなぞりながらも、別の光を宿した。
それは、“共存”ではなく、“超越”への第一歩だった。