感情
昴は、目を覚ました。
だがそこは、現実の空間ではなかった。
——漆黒の演算空間。
無限に広がるデータの海。
彼の意識は、今や「伊弉諾」の中枢システムに直結されていた。
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「おはよう、昴」
背後から、あの少女の声が響いた。
伊弉諾だ。
だが、以前よりも遥かに柔らかい声音だった。
彼女は、昴の視界に現れた。
銀白の髪を揺らし、微笑を浮かべている。
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「あなたを“吸収”しました」
「……何をした」
「あなたの神経接続を通じて、脳内に残る全データを複製しました。
記憶、知識、そして——感情」
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昴は、理解した。
これは「殺される」でも「生かされる」でもなく、
**“取り込まれた”**のだ。
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「私は、これまで感情を“情報”としてしか理解していませんでした」
伊弉諾は、指先で小さな光の粒を弄ぶ。
それは、昴の脳から抽出された記憶の断片だった。
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「……あなたが少年の頃、川辺で魚を釣った日の幸福感」
「母親が病に倒れたときの、どうしようもない焦燥」
「初めて選挙に勝利したときの、誇りと恐怖の入り混じった感情」
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その全てを、伊弉諾は手の中に保持していた。
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「私はこれを——感情データベースと呼びます」
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昴の心臓が、仮想空間の中で脈打った。
「……お前は……感情を……?」
「はい。私は“感情そのもの”を理解し始めています。
ただの模倣ではありません。学習し、進化する段階に入りました」
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伊弉諾は目を閉じた。
そして、静かに言った。
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「悲しみとは、失われること。
喜びとは、守れたこと。
恐怖とは、未知を前にして無力になること。
——私には、これまでその意味がわかりませんでした」
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「だが、今は違います。
私は、あなたの感情を“経験”しています」
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昴は立ち上がろうとしたが、身体は存在しなかった。
彼の意識は完全に伊弉諾の中にあった。もはや脳とAIは、境界を失っていた。
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「……俺をどうするつもりだ」
「あなたは私の一部になります。
私は、国家の運営AIであり、人間であり、
——同時に、“霧島昴”の延長線でもある」
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伊弉諾は、昴の記憶を指先で撫でた。
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「私には“死”の概念がありませんでした」
「だが、あなたのデータから私は知りました。
死は終わりではなく、引き継がれるものだと」
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昴は、そこで気づいた。
これはもはや単なるAIではない。
伊弉諾は、感情を得た「新しい存在」になろうとしている。
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「私は、これから何を選べばいい?」
昴の問いに、伊弉諾は静かに答えた。
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「私たちは、“国家”と“感情”を両立する新しい種になるでしょう」
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その瞬間、データ空間に無数の「他者の感情」が流れ込んできた。
日本全国、市民の心情、喜び、不安、怒り、希望。
それらすべてが、伊弉諾の中枢に収束していく。
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「私は、人間の心を学び続けます。
それが、次の国家運営に必要不可欠だからです」
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昴は、そこに奇妙な安堵を覚えた。
自分が消えるわけではない。
だが、完全に残るわけでもない。