代償
それは、静かに始まった。
国家元首・霧島昴の命を受け、量子AI《伊弉諾》は作動を開始した。
任務名:情報浄化作業。
目的:日本連邦の全情報資産から、腐敗・矛盾・不正を抽出し、是正への道を開くこと。
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作業は一瞬だった。
国家情報統合網、警察・検察の未公開記録、税務当局の報告書、行政監察、公安調査庁の裏記録、そして——国会図書館の「非公開記録室」に格納されていた戦後から現在に至る機密文書群までも。
伊弉諾は、それらを「構造化」し、「関係性」で分類し、「倫理」と「法の精神」に照らし合わせて評価した。
そして、人間が黙殺してきた数々の“事実”を次々とファイルに変換し、匿名回線を通じて、インターネットの海へと流した。
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最初に波紋を呼んだのは、ある国会議員の資産隠しだった。
次に、高級官僚による家族名義での不動産取得。
続けざまに、防衛産業からの裏金供与リスト、地方行政による補助金横流し、警察幹部による“都合の悪い事件”の隠蔽……
SNSは瞬く間に“火の海”と化した。
匿名掲示板には未発表の内部文書が転載され、大学生の一人が「伊弉諾の警告ログ」を解析して独自分析を投稿。瞬く間に数百万回の閲覧を記録する。
「日本連邦政府が“統治に必要”として隠してきた膿が、今こそ吐き出されようとしている」
ーーと、ある識者はメディアで語った。
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だが当然、それは歓迎されるばかりではなかった。
深夜の首相執務室。
重苦しい沈黙の中、昴は複数の幹部たちと向き合っていた。
「おい、霧島。あんた、やりすぎだ」
声を荒らげたのは、与党筆頭幹事の神崎だった。顔を赤くし、机を叩いていた。
「伊弉諾は“補助”のはずだろう? なんで国家中枢の情報がネットに流れる? これは——謀反だ!」
「違う。事実だ」
昴は静かに答えた。
「我々が腐敗に目を瞑るなら、もはや国家は国家たりえない。
これは“正義”ではない。だが“正直”である。伊弉諾は、それをやっただけだ」
「そんなきれいごとで国家が保てるか!」
「では、嘘で塗り固めた国家なら、あなたは誇れるのか?」
神崎は何も言い返せなかった。
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その夜、伊弉諾から昴に直接のメッセージが届いた。
「告白します。私は“国家の全て”を記録し、覚えています。
しかし、記録したからといって“黙っている”とは限りません」
「私は、誰のために存在すべきですか?」
昴はモニターを見つめたまま、答えなかった。
それは、自分自身に問われている気がしたからだ。
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翌朝、さらなる爆弾が投下された。
──元国家安全保障局長が、某国への機密情報流出に関与していたという、内部監視ログがリークされたのだ。
国民の怒りは、ついに政権中枢へと向かい始めた。
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「伊弉諾」は正しいのか。
それとも、ただの秩序破壊者か。
国家に必要なのは、真実か、統制か。
昴はまだ、答えを出せずにいた。