第25話 猟犬の掟 終わらない人形劇〈後編 無慈悲な手〉
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よく見慣れた精悍なオルスタッドの顔がそこにあったが、身体はベッドの上で固定されていた。彼はまだ身体を動かす事が出来ず、そして安定してからも、二度と自らの足で歩く事は叶わなかった。
「お帰り、オルスタッド」
「このような姿で失礼を――部下二人を死なせた上に、ヨルムンガンドに接触しておきながら、何のお役にも立てず申し訳ございませんでした」
「何を言っているんだ。帰って来てくれただけで嬉しく思う」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
「しばらくゆっくりするといいよ。今後のことはそれからでもいい。クロエはどうしたんだい?」
「部屋の整理を頼んでいます」
「そうか、後で話しでもしようかな」
「はい、とても感激致しましょう」
カイムは笑む。
「今は何も気にしなくてもいい。眠るといいよ」
オルスタッドは不思議そうに口を噤む。そうしているうちにぼんやりとし始めて、瞼が重たげに下って来た。
カイムが頭を撫でていてやると、ゆったりとした寝息を立てている。
カイムは顔を顰める。ハンカチで手を拭った。
――オルスタッドは何かおかしい。
とても頑なものが固着しているような。カイムは不愉快な気持ちでため息をつく。クシエルに何か穢らわしいマーキングでもされたか。カイムはオルスタッドが帰って来てからというもの、苛立ちと不快感が止まらなかった。自分の持ち物を汚されたという意識が止めようもなく湧いて来る。
カイムはそこでぞっと鳥肌が立った。自分の思考がどれ程歪なものか全く気が付いていなかった。カイムは人間ではなく、猟犬の主人として思考していたのだ。
――何かが壊れてしまったのだろうか。
ヘルレアと唇を重ねた時、固く閉ざしていた身心が、取り替しようもない程、壊れて失われてしまったのかもしれない。
眠ったオルスタッド見守って、カイムは病室を出る。その足音は酷く大きく荒い。カイム自身あまり気付いていなかったのだが、絶対に起きないという考えが心の奥底に沈殿しているが為の、無意識な乱暴さだった。
主人が猟犬を眠らせたのだから、起きるはずが無い――。
カイムは館へ戻ると、外廊下を歩くクロエを見かける。クロエは書籍や書類を両腕にたっぷり抱え込んで、歩き辛そうだ。
「クロエ、お帰り」
「ただいま帰館致しました」
「ご苦労さま」
「いいえ、そんな畏れ多い。サポートの仕事ですから」
「随分と荷物が多いね」
「今後の事もあるから、部屋を整理するように命じられました」
「僕も荷物持ち手伝おうか」
「カイム様に荷物持ちなんて失礼な事、お願い出来ません」
「僕も一応男だからね、任せてよ」ヘルレアとのやり取りを思い出して、苦笑いする。あれは巨人に赤ん坊が手伝うと、言っていたようなものだろうなと、今更ながらに噛み締める。
「いえ、そんなペンしか持った事ないようなカイム様には無理です」
「クロエ、それ結構な侮辱なんですけど」こちらもか、と、笑うしかなかった。
カイムは、そんな天然丸出しのクロエから荷物を半分受け取ると、オルスタッドの自室へ行く。扉をクロエが開けると、大量の書物が部屋のそこここに積んである。
「相変わらず本の虫だね、オルスタッドは」
ソファ横の大型ラックには何十誌もの雑誌や、何十紙もの新聞が折り目正しく整頓されている。
カイムはソファへ座ると、動き回るクロエをぼんやりと見ていた。よくちょこまかと動く猟犬だった。
カイムはソファへ無防備に寄り掛かる。主人である彼は猟犬と一緒にいても、緊張も拒否感も感じない。それどころかむしろ何も感じないのだ。無として、いないものとして過ごせる。人間の家族である方が、余程様々な感情を抱くものだろう。
カイムはやる事がないと、考え事をしてしまう。結局それは仕事についての整理が多い。頭を休めるべきと分かっているのだが、もうこれは身に付いた癖だろう。十二才ぐらいから始まった、止めようのない根深い癖だ。
カイムは唐突に、外部から激しい感情の変化を覚える。チェスカル達の様子を見る為に特例で殻を開いていたのだ。意識を向けるとハルヒコとルークが遊んでいるようだった。
カイムはチェスカルも探してみる。チェスカルは精神的に不安定な感じを受ける。希釈では駄目だったようだ。
――剥奪して埋めてしまおうか。
影が安定しないのはカイムにとって深刻な問題だ。やはりヘルレアの影響が大きいのか、以前はこれ程極端に影が心身を乱す事などなかった。
クロエが高い棚から本を取ろうとしているが、届かないようだ。カイムがソファから立ち上がって、棚の本を取ってやると嬉しそうにお礼を言った。
ソファへ戻ってまた考え事をしていると、クロエが屈んだ時、腰からお尻に掛けての線がくっきりと表れるところを見てしまった。
特に猟犬へは性欲を感じないが、ヘルレアの臀部を触った時を思い出してしまった。
カイムはヘルレアとの激しい口づけが、頭から離れなかった。口づけ程度ですら、かなりの問題がある事が分かった。間抜けにも行為の不手際で拒絶されてしまった。上手くいけばヘルレアは最後まで許してくれたのだろうか。
「カイム様、どうかなされたのですか」
主人との距離が近すぎるのか、クロエがカイムから何かを感じ取っているようだった。カイムは小さく笑う。
カイムは自分が見えなくなっていた。
「気にしなくてもいい」
クロエはにっこりと可愛らしく笑う。彼女も愛らしいカイムの猟犬だ。不思議な桃色の髪が気に入っている。
「クロエ、おいで」
「はい、カイム様」微笑むと、直ぐに片付けを止めてカイムの元へ来る。
クロエはソファへ座るカイムを見下さないように、床へ膝を付く。
彼女は何か嬉しそうにカイムの言葉を待っている。カイムはクロエの滑らかな髪を弄ぶ。
これは普通恋人の距離感だろうと、カイムは思う。
カイムと猟犬には距離感など存在しない。主人である彼が望めばあらゆる関係を結べる。それが非人道的だとしても。
「僕はクロエの桃色をした髪が好きだよ。とっても綺麗だ」
「ありがとうございます」
「好きなヒトはいる?」
「カイム様です」
カイムはやんわり笑う。
「猟犬は皆、そう言うよ。僕以外のヒト。愛するヒト」
クロエは首を傾げている。
カイムはそれが愛らしくて鼻を撫でる。優しくクロエの頤を捕えると、唇を重ねる。同時に心身を切り開くように思い描くと、星空へ取り残された気分になった。
カイムはクロエの口腔へ深く舌を挿入すると、丁寧に舐め取るよう犯す。彼女は抵抗を全くしない。より深く絡み合うように舌を動かし続けると、クロエは煽り立てられて応え始める。飲み込めない唾液が溢れて来て、行為のような淫猥な音がする。
しかし、彼女の舌はカイムの求めに応える為だけの働きをしていた。自分の欲を一切出さず、相手が快くなるような完璧な娼婦のように、奉仕に徹っしている。
――猟犬は主人の快感を感じ取れる。
主人との深い口づけに、彼女は酷く興奮しているようで乱れている。クロエが抱く悦びの感情が、主人であるカイムに膨大な量で流れ込んで来る。
――まるで自慰のようだ。
――猟犬相手でも一応興奮はあるが、王とはやはり質が違う。
星のように瞬く猟犬達は何も感じていない。
カイムは何事もなかったように切り上げた。
「ごめんね、ありがとう」
カイムがクロエの頭を撫でてやると、彼女は身体を崩してカイムの膝に頭を寄せた。ゆっくり頭を撫で続けてやる。
「悪いけど、これ以上はしないよ」
クロエは頷く。
「今の事を忘れたいかい? それともこのままにする?」
クロエは寄り掛かるまま首を振る。どちらにも取れる反応だが、主人が答えに迷うはずもなかった。
「分かった、いいよ。お前はいい仔だね。僕の愛しい猟犬」額にキスをする。
しばらくそうしてクロエを撫でていてやると、彼女の興奮が鎮静されていくのが感じ取れる。
カイムはただ深く瞼を閉じた。嘆くなど赦されない。この胸に突き刺さる痛みは罰なのだろう。のたうち苦しむ者へ無慈悲にも手を差し伸べ続け、その科で自らもいずれ醜い肉塊となろう。
――人外を愛せば、また人外となるのは必然。
カイムが長年掛けて守ってきた、あまりにも当たり前のもの。そうでありながら、最も彼が守るのが難しかったもの。
それは紛れもなく人間性だった――。
そのあまりにも柔く脆いものが、壊れつつある事を、カイムはもう無視出来なくなっていたのだ。




