第24話 地を統べる神 天与の器なる獣〈前編 神の愛子 紡がれた糸〉
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綺士と百足が絡み合っている。どちらが押しているのか判断出来ない程、力が拮抗している。
いつの間にか霧が薄くなって来ていた。周りの風景がかなり見渡せる。アデラインに操られている人間が、男女ペアで手を組みあったまま静止している姿が、遠くまで延々と見えた。中には子供も混ざっており、通りは人間で埋め尽くされている。おそらくチェスカル達から見えない道路にも、人間が留め置かれている。
――既に村人全員が綺士の手中にある。
早く解放しなければ、最悪の形でアデラインに利用されてしまう。
ルークが人々を見て眉をひそめると、勢い込んで飛び付くようにチェスカルへしがみつく。
「副隊長、転化させてください。もう、見ていられない」
「時間は四分だ。まだ、それ以上お前には無理だ。守れるのか」
「絶対に決まりは守ります」
「駄目なら射殺する」
ルークは重く頷く。そうすると彼は、取っ組み合う神獣と綺士へ向けて、何の躊躇いもなく駆け出した。彼の足元から、金の砂が沸き立ち始める。それは徐々に激しさを増し、黄金の砂が風に巻かれて吹き荒れる。巨大な嵐となって、ルークの姿が完全に呑まれた。すると、砂嵐を追い越すように、あまりにも大きな――体長四メートル程の――純金の犬が現れた。
天犬――。
毛並みはまさに黄金。切れ長の目は人身と同じ水色。口吻は長く、耳は鋭く立ち、引き締まった体躯と四肢、立尾が犬らしい。転化したルークは、一切ためらわず綺士へ喰らいついた。
――天与の器。
ルークは神々の寵愛を受けたという異能の一つ、獣身転化を持つ稀有な人間だった。
そしてその反面、ヘルレアが人狼と嘲ったように、獣とも蔑まれる、複雑な生まれでもあった。
チェスカルとハルヒコは綺士の脳天を、徹底的に撃ち据える。いかな綺士でも脳を破壊されれば知能に異常を来たすようである。
巨大な犬になったルークが、綺士の腕を毟り取る。彼が飛び退ると、今度は神獣が綺士の身体に巻き付いた。硬いものを捻り潰す重い音が止めどなく上がる。
甲高い綺士の悲鳴が空気を震わせる。それは不快な音だが、幻覚を呼ぶ事はない。アデライン自身は、幻惑系の攻撃を使えない。百足を利用して幻を見せていたのだ。
そして、神獣は幻惑係の攻撃をしなくなっていた。
「この戦いって、どこまでいけばメドが立つんでしょう」
「訊くに、ヘルレアが綺士を倒した方法は、完全に綺紋頼みだった。物理攻撃一辺倒では、どこまで破壊すればいいのか現状不明だ。今は神獣がいるだけ有利だが」
ルークが今度は脚に喰らいついている。純金の強い被毛がどす黒く染まっていく。
――後三分。
「ルーク、攻撃に集中し過ぎるな」
犬が綺士の脚に喰らいついたまま、鼻に皺を寄せ、大きな唸り声を上げる。口から血が溢れる。
「あいつ、大丈夫なんでしょうか」
「まだ、我を忘れるような状態にはないようだ」
綺士が耳に突き刺さる超高音の悲鳴を上げる。途端にルークが綺士から弾かれ、のた打ち回って口に泡を溜める。チェスカルとハルヒコも膝を折って耳を塞ぐ。だが直ぐに、綺士の脳天へ攻撃を再開した。
「ワ、ワワわ、ンちちちゃん達ががが、邪魔くサイ、わね。ニにニににニンゲ、ンはニンゲンどうしで殺りあうといいわ」
アデラインが百足の空きを見て糸を手繰り始めた。
舞踏していた男女が手を一斉に離し、チェスカル達へ向かって押し寄せて来る。
「銃は使うな普通の人間だ」チェスカルは痛みで頭を振る。
チェスカルとハルヒコはふらつきながらも、体勢を整えて向かい打つ。
チェスカルは襲って来る村人が、なるべく怪我を負わないような体術でいなし続ける。ハルヒコはさすがに対人における格闘が得意なだけあって、軽く受け流せていた。だが、避けても避けても、切りがない。更におそらく気絶させようが、操られている為に意味がないだろう。これでは、猟犬達の体力ばかりが削られていく。
チェスカルは糸がなんとか切れないものかと躍起になって、ダガーを空間に振るってみたが、やはり一切実体化していないようで、何も手応えがなかった。しかし、実体化していてもダガー程度では糸を切断ないのは、先程確認済みだったのだが。
外法の捕縛術は、媒介や術式の記述を頻繁に用いる。ミラの肩口あった百足と名前の入墨〈刺繍〉を切除出来れば、術が解ける可能性がかなり高い。だが、切除する方法がそもそも無きに等しい。攻撃を仕掛けてくる相手の肩口を、正確に切りつけえぐり取るなど、幾ら優秀な影の猟犬でも、危険過ぎて出来ない。たとえもし、術を解除出来たとしても、後に失血死させてしまうだろう。
チェスカルはルークをちらりと覗う。先程からルークの攻撃が見境なくなり始めていた。恐怖心というものを喪失して来ている。そろそろルークを人身に戻すべきか。制限は四分といえど、それは、時と場合による。敵が強くルークが夢中になればなるほど、取り返しがつかなくなってしまう。
「ルーク! もう限界だ戻れ」
天犬は猛烈な勢いで綺士に攻撃を続けていて、チェスカルの声が耳に入っていないようだった。猛り狂い始めている。
「不味いぞ」
「この馬鹿犬止まれ、撃ち殺させるな!」ハルヒコが叫ぶ。
ルークの猛攻で綺士は完全に押されていた。その空きを突いて、百足がアデラインを完全に捕らえて、締め付け始める。骨を折るような重い音が止めどなく響き渡る。
さすがの綺士も呻いている。
「……いやよ、痛いわ。こんな畜生共から、いいようにされるなんて。悔しい、赦さない。もう、いい。もういいわ――皆、殺してやる!」
百足に巻き付かれている綺士が、大きく身体を揺する。まるで木の幹が折れるような音がすると、血が百足の身体から噴出した。
神獣が攻撃を受けたのかと思いきや、百足に何の変化も起こっていない。そうすると、巻き付く百足の身体に出来た隙間から、綺士の腕が生えてきた。
「腕を出す為に身体を自切したのか」
綺士は新しく生えた腕を大きく広げる。すると、チェスカルとハルヒコへ襲いかかっていた人間が、勢いよく中へ飛んで行った。上空を見ると、数え切れない程の人間が束になって一箇所に集まっている。チェスカル達がいる場所は、完全に翳りの中に置かれた。
チェスカルは何が起ころうとしているのか、一瞬で分かった。
――ああ、駄目だ。動作が追い付かない。
「みんな、お疲れ様!」アデラインは狂喜を孕んで哄笑する。
弦を弾く一際巨大な音――。
チェスカルはまるで、自分が低速の世界へ落ちてしまったのだと思った。大量の血液と肉片と臓物が、上空から殺到して来たのだ。その重みにチェスカルは俯いた、立っていられず脚が崩れる。血と肉の臭気に吐き気を催して、知らず知らのうちに口を覆っていた。
凄まじい豪雨が降るような濡れた音は、永遠に終わらないかのように錯覚してしまう。
だが、その中でも酷く悲痛な鳴き声が聞こえる。チェスカルは一瞬で、その鳴き声が神獣のものだと分かった。
ようやく血肉の雨が止んだ時、誰もが崩折れていた。血肉の重みに耐えられず、埋もれてチェスカルは藻掻いた。吐きそうになるのを呑み込んで、腰付近まで圧迫して来る血肉の泥濘を掻き、立ち上がると足元を確保する。皆、赤いどころかどす黒く、ハルヒコやルークどころか、チェスカルも精神面で殆ど動けなくなっていた。
何かを噛み損ねたような音を出して、綺士が神獣の束縛から開放された。神獣は明らかに呆然としている。人間のチェスカルにも分かった。あの無機質にも感じる百足の神には、人を慈しむ心がある。
「――ああ、すっきりした。今度こそ本当にお掃除しましょうか。ねえ、皆様」
綺士の身体が傷一つ無く再生されていた。
――あの綺士はかつては人だったのだ。
異形である百足の神すら、人を思う心があるというのに。
現実の理不尽さ、残酷さにチェスカルは叫び出したくなった。そして、自分の無力さ、無能さを、ただ謝りたい少女がいた。
だからこそ、再び綺士へ銃の狙いを定める。
「……ハルヒコ、ルーク。まだ、動けるか」
「動けます」ハルヒコが頷く。
ルークが攻撃の体勢に入っている。
「ルーク、もう人身に戻れ」
ルークがチェスカルを不満気に見ている。しかし、チェスカルが首を振る。そうすると、ルークの獣身は金色の砂となって溶け、涙ぐむ人身のルークが現れた。
唐突にアデラインが、チェスカル達を見て首を傾げる。
「あら、ぴったり! あなた達は……運命というものに寵愛されているのかしら――ごめんなさい、お呼ばれしてしまったみたいなの」
「何を言っている」チェスカルはいつでも撃てる態勢にあるが、綺士の言葉を遮れなかった。
「あのね、私が使う糸っていうのは、象徴として扱われ易いわ。先程言った運命がそうね。ノルニルが紡ぐ糸は運命を定めるものなのよ。そして〈女達〉もまた、采配と称して、己が望むように世界のモノゴトを動かしていく。それは人間が抗えない以上、運命とも言えるのではないかしら。案外、〈女達〉はその伝説にある、ノルニル自身なのかもしれないわね」
アデラインの姿が影のようになると、白衣を羽織った女が現れた。その姿は戦闘の後だというのに乱れていなかった。人間の状態と綺士の状態で転じた姿は、人間の理解を超える力が働いている。
「そう、そしてそんな〈女達〉が動かすモノゴトはね、小さな流れから全てが始まるの。それはいつしか本流となって、双生児の勝敗を決めるわ。全てのモノゴトは馬鹿らしいくらい、ご都合主義的に進むのよ――おそらくあなた達は小さな流れ以前、水滴のようなものかしら」
女は可愛らしく微笑むと髪を払う。
「だから今は殺さないであげる――今まさに、あの方が私を呼んだ、だから私はあなた達を生かす。この世界は君達三人の死を、まだ、望んでいないのよ。楽しみね、また会いましょう……私の素敵なチェスカル」
アデラインは一人で納得しているようだった。
綺士は鼻で嘲笑う。
「では、ごきげんよう、血塗れのクソ猟犬共」
アデラインは一瞬で消えてしまった。そして、神獣もどこにもいなかった。
ルークが血と肉片にまみれてすすり泣いている。ハルヒコも血と臓物の泥濘で、動けず座り込んでいる。チェスカルもまた身体が言う事を聞かなかった。
終わった。
終わってしまった。
何も出来なかった。
何一つとして救えなかった。
ブドウちゃんに村へ帰れるようにすると、約束したというのに――。
「……あの神獣、死にます。消滅する。なので、村も消えるでしょう。庇護の無いこの土地はもう駄目だ」
ルークがうわ言のように喋っている。
「ブドウちゃん待ってるな……」
「せめて結果だけでも、責任を持って伝えて帰ろう。それが私達に出来る、ブドウちゃんへの最大の誠意だ」




