第23話 偽りの世界と知りながら〈後編 影の猟犬〉
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雑用のシド・ペテルは眉をひそめる。
ヴィーがいつまで経っても戻って来ない。カイムの傍でふらふらしているのを見咎めて、念の為エレベーター付近で待っていたのだ。案の定現れる様子がない。
ヴィーはいつも勝手に歩き回っては、カイムへ甘える真似をして迷惑を掛ける。もうヴィーは仔犬ではない。立派な猟犬だ。なのに改める様子が全く見られない。
シドはヴィーのいい加減なところを見ていると、苛立ちが収まらなくなる。まだ彼女が幼い頃ならば、シドもそれ程ヴィーに不快感を覚えることはなかった。しかし時が経つに連れて、いつまでこのような態度で仕事に向き合うのかと、責め立てたくなった。
だが、シドにはそんな資格はない。先輩と言っても、所詮はただの同僚なのだし。
――そして、そもそもヴィーは。
隊長がヴィーを猫の仔のように引きずって来る。
「離して、たいちょー!」
「うるさい、静かにしないとカイムに言い付けるぞ」
「嘘、嘘、黙るから」
ジェイドがシドを見止めると、安堵したようにため息をつく。
「丁度いい、シド。この馬鹿を仕事へ連れて行ってくれ」
「お任せください」
「うわ、たいちょ。私シド嫌いなの」
「それはよかった、バッキバキに締めてもらえ」
「げろげろ。あたし、シドより強いもん」
「じゃあ、シド、悪いが頼んだぞ」
シドは思わずヴィーの細い手首を掴む。
隊長が立ち去ると、エレベーターを二人で待った。
「離してよ」シドへ顔を向けようとしない。
「自分で解けるだろう」
ヴィーはシドへ、顔をくるりと向けて眉を顰めると、舌をべーと子供のように出す。そうしてから、腕のちょっとした動作で、シドの大きな手を払ってしまった。腕力は一切使っていないのが、シドには見た目にも体感的にも判る。
「なんで、そこで素直に手を離さないかな。だから、女の子に嫌われるの」
「嫌われようが、嫌われまいが、そんな事、ヴィーには関係ない」
「それはそうでした。シドの女関係なんか知りたくもない」
エレベーターが停まると、先客の猟犬が二人乗っている。シドとヴィーはエレベーターの端々へ別れて乗る。
「お前等、また喧嘩してるのかよ」若い猟犬が苦く笑う。
「シドが嫌がらせしてくるのよ」
「人聞きの悪い事を言うな」
「シドもヴィーも、やかましいわ。箱の中では黙れ」仕事をして来た先輩の猟犬が、切れかかっている。まだ血を浴びて興奮状態なのが伝わって来た。
エレベーターから押し出されるように、二人は目的の階へ下りた。そのまま何となく、二人は黙り込んでしまい、埋める気の無い距離を十分に空けると、無言で作業室へ戻って来た。
作業室では雑用へ個々に作業台を与えられて、影の身の回りの諸事に当たる。影は九人であるから必ずサポートも最低九人以上在籍するように、猟犬を配置している。雑用とは呼ばれながら、シド達は紛れも無く選び抜かれたエリートだ。単なる雑用というより、影に育成されている段階だと認識する方が正しい。
作業室には、よりによって誰もいなかった。
ヴィーは案外と素直に作業台につくと、様々な備品の点検を始める。彼女の手際は驚く程よく、手間という手間もかからずに作業工程を進めて行く。
シドは違う意味でため息をつく。
ヴィーはおそるべき天才肌なのだ。そして同時に超攻撃特化型の恐ろしい猟犬でもあった。シドはヴィーに一生勝てないという考えに憚りはないし、彼女へ限っては、恥だとも思わない。何故ならシドには、正常なヒトらしい恐怖心が具わっているからだ。
――上の方々もヴィーくらいなら、ちゃらんぽらんでも赦すのだろう。現にカイム様はこいつに甘い。
「知っているか? お前は次期影候補だと噂されているぞ」
「え? 私はやだなー」
「何故だ。取り立てていただけるなら、喜んで受けるべきだろう」
「だって、影になったら何かと任務へ行かないといけないじゃない。カイム様と離れるのは嫌だよ」
「変な奴だな。主人のお役に立てるなら本望だろう」
「それは男とは違うもの」
シドは口を噤む。ヴィーに言われて初めて気付いて、そして彼女に気付かされた事に驚きを覚えた。
現在の主人は男性であるカイムだ。主人の嗜好にもよるが、雌猟犬は雄猟犬と違って、別の奉仕行為が出来ることが多い。主人に寵愛されれば、それは擬似的であっても、妻として扱われることもありうる。褒められたことではないが、子すら授かれば、その地位は安泰であろう。
だが、今の主人は愛さない。
猟犬へ性関係の愛を求めないのだ。
「……まあ、まだどうなるかは分からない」シドは口元で呟く。
「シドだって候補じゃない。今回副隊長を含めて三人除隊しちゃったから、アトラスとシドが新しい隊員だー、って言ってるのも聞いたよ」
「俺は……いや、何でもない。確かに、この三人辺りが次の影じゃないかって、言われているようだが」
「シドは影になりたいの?」
「取り立てていただけるのならば、俺は何にでも喜んでなろう」
「まあ、出世が出来れば嬉しいわよね。肉片すら帰って来ないかもしれないけど」
「それは猟犬だ、皆覚悟はあるだろう」
「私はそんなのないよ。カイム様のお嫁さんになる」
シドは微かに眉根が寄る。やはり、彼が思う通りの言葉がヴィーから漏れた。主人の指向を理解しているはずなのに。
「子供じゃあるまいし、馬鹿げた事は言うな」
「馬鹿じゃないよ!」
「だったら何だって言うんだ」
「どうしてシドに、そんな事話さないといけないの」
――傷付くのはお前だ。
シドは言葉を呑み込んだ。彼にヴィーの何を否定する権利があろう。彼女の個人的な事柄に踏み込んで、何故傷付けなくてはいけない。
「――何でもない、忘れてくれ」
ヴィーがシドを見つめて瞬いている。すると、彼女は大人びた小さな微笑みを浮べた。
「……ありがとう、シド」
あまり聞いた事のないお礼の言葉に、ヴィーから目を逸らす。
シドは彼女といるのが辛くなったが、その理由は分からなかった。あれ程ヴィーを仕事へ戻そうと考えを巡らせていたのに、今はシド自身が作業室から無意味に離れてしまった。




