第22話 呪縛の刺繍 猟犬の戒め〈後編 あなたの為だけに〉
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綺士が停止する人々を一斉に下がらせ、広場を作る。明らかに綺士も迎え撃つ体勢を整えていた。ここから推察するに神獣は強い。あの綺士であるアデラインですら、臨戦状態に入らなければ対処出来ないよう。
チェスカルでも、さすがに神へは会ったことがない。獣性が強いであろう百足の神が荒れれば、どれだけの厄災を起こすか未知数だ。
建物の窓ガラスが百足を中心に割れ出した。音波のような存在に、気付いたと同時に、チェスカル達は立っていられず倒れ伏す。ルークはもう、のた打ち回っている。
綺士は突進すると、百足を組み伏せようと揉み合ってい始めた。
「せっかく捕まえたのに……幻惑の王」
歌のような音が大気を震わせる。今度こそ明らかに歌のようだった。
――鼻歌。
チェスカルは頭の中が明滅して、思考という行為を失った。吐いて、吐瀉物に喉を詰まらせそうになる。
苦しい――。
ただ頭の中を弄る不遠慮な手があった。
息を吹き返すと、唐突に主の手が頭を抑え付けていることに気が付いた。その手はあらゆる尊厳を奪う手付きで、屈服を求めている。チェスカルは小さくなって座り込んでいた。周りは何もない闇だった。
「……、お前には期待していたのに」
主の声色から落胆と諦めを感じ取った時、彼の口からは何も出て来なかった。身体が一瞬で冷たくなって、四肢が神経を失ったようだ。
――不興を買ってしまった。
脂汗がうっすらと浮かんでいる。
「猟犬は幾らでもいるんだよ。忘れたのかい?」
主は小さく嘲笑う。
「ああ、……達ではなくて、お前が死ねばよかったのにね。猟犬って主に見棄てられるのが一番恐いんだろう。さて、今はどのような気分かな?」主人が靴底を何度も鳴らしている。まるで何かの数を数えているようだった。一つ増える事に、彼は取り返しの付かないところへ向かっていくよう。
主は優しい笑顔で彼の頭を撫でる。ペットを撫でるような、酷く優しい手付きだった。触れる手は喜びを喚起させるのに、押し付けられるような暗い感情に、視線を動かす事も出来なかった。
彼は何も言えない。身体が震えていた。自分自身でもよく分からないくらい恐ろしかった。何か判らない。ただ、赦してほしくて堪らなかった。
「可哀想な猟犬。仔犬みたいだね。親に見棄てられるのが、そんなに恐いのかい」
これは親に棄てられるような恐怖だけなのだろうか。もっと違う。もっとずっと、生きる事を否定されるような。存在そのものを侮蔑されるような苦痛が根底にあるような。
彼は迷う。言葉が出て来ない。主が問いかけて来ているのだ、早く答えなければならない。
「……お赦しください、今まで以上に、もっとお役に立ちますから」
「残念だな、それは当たり前の事を、今までしていなかったてことかな」
「違います、違います――どうか、お赦しください」
「あらら、語彙が無くなってしまったね。いいかい、僕は無能が嫌いなんだ。ゴミのような畜生にも劣る猟犬なぞ、何の存在価値がある。何の為に捨身の供物にしてやったと思っているんだ」
彼は身体を支え切れず崩しそうになると、主が頭を鷲掴みにした。
「動くな! 誰が動いていいと言った」
その強い声に、彼は息を詰める。身体は一切の動きを止めて、瞬きすら出来なくなった。
主は腕を組んで彼を見下ろしている。穏やかな緑の眼が微笑む。
主が彼の眼前で指を数回鳴らす。
「僕の言葉一つで、身体も自由になれないなんてね。酷く滑稽だ、愉快ではないか」
チェスカルは頭が真っ白になっていた。思考する方法が一切分からなくなっていのだ。
主は内面すら掌握している。
「愚かな……、身体を楽にするといい」
彼は大きく呼吸を繰り返す。玉のような汗が額から首へと伝う。
「僕の愛する穢らわしい猟犬、そろそろ終わりにしよう」
頭が真っ白のままだ。動く事が出来なくて、ただ主の為すがままになっているしかない。苦しくて、苦しくて。
息ができなくなりそうで――。
棄てないで。どうか、嫌わないで。
――あなたの為だけに私はいるのだから。
「では、死んでくれるかな。目障りだ。もう、二度と僕の前には現れるな」
彼の顔に脂汗が滲んでは、頤から零れ落ちる。身につけているダガーを抜くと、首元へ持っていった。そうして、首を引き裂こうとした瞬間、重低音が轟き、彼はダガーを落とした。
チェスカルは現状を正しく捉えられた時、あ然としていた。チェスカル達三人は無防備にも地面に転がっている。遠く離れたところで綺士と百足が組み合っていた。
自分自身の思考に理解が及ばなかった。カイムに威圧された時の悲しみと苦痛を思い、胸を掻き抱く。必要無いと言われて、自害する事も厭わなかった自分。
あまりにも拙く幼い感情の動きは、一体どこから来るものなのか。
ルークがチェスカルの隣で、めそめそと泣いている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
チェスカルは背筋が寒くなる。彼はルークと似たりよったりな事をしていたのだろう。
――これが猟犬の性か。
猟犬に枷られた究極の戒め。それは、主への忠誠など美しいものではすまない。依存、畏敬、固執、愛慕、そして限り無い恐怖。主という絶対的存在に服従し、下僕でも奴隷ですらない、身体どころか心すら捧げた捨身の供物。
駄目だった。主から負の感情を向けられる幻覚だけには、逆らえなかった。
ステルスハウンドに固着する猟犬達の歴史は、虐待と苦痛、性愛と死にまみれている。
それでも主を愛さずにはいられない、猟犬の悲哀。
現当主の穏やかさに、チェスカルは遥か遠くから感謝を捧げる。
ダガーを鞘へ納めると、ルークを現実へ戻し、銃を手に伏せる危ういハルヒコを立たせる。
ルークが吐き戻してしまった。ハルヒコも気分が悪そうだ。
ルークがまだ潤んだ眼で顔を上げる。
「鬼畜な、カ……」
「あの方の名前は言うな――」ハルヒコの顔は真っ青だ。
「あれは百足の能力なのか? 確か先程、幻惑の王と綺士が言っていたな」
「……そうです、あの神は生物へ幻を見せるようです」
「先程のは、幻の質が何か違うな」
「あれ、さっきの怖いのは多分、綺士への攻撃に巻き込まれたんだと思います。その生物に取って最も苦痛を伴う意識を引き出すような、攻撃的で強力な幻覚を見せた」
「神の目的はなんだ」
「あの百足は土地を統べる神獣です。付き合い方を知っていれば、人間に害悪だけをもたらす荒神ではありません。なので土地を荒らしている綺士に対して凄く怒ってる」
「護っているというのか」
「そうです。土地にはその場所に棲む者も含まれますから、神が勝てば村人は助かると思う」
「百足と綺士の戦いに、俺達は邪魔になる可能性は?」ハルヒコが髪を掻き上げる。
ルークは一瞬迷いをみせる。
「俺達の攻撃力は有用だと思う。でも、俺達自身が幻覚に対処出来ない場合は――自分達が死ぬだけ」




