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第14話 魔幻の囁き〈前編 底へ沈む少女〉

19



 これは牢獄だ――。


 霧が薄っすらと立ち込める森。木々の間隔は狭く、密集している。ほぼ平地なので、遠くまで見渡せば、立ち並ぶ木が、霧にぼけて重なり合って見える。太い幹が伸ばした枝葉は、互いに噛み合って、それこそ天幕のようだった。


 光がほぼ地上には差さない。下草は乏しく、地表は太い根が絡み合う姿が裸になっていた。


 チェスカルは自分が森の中にいることに気がついた。本当にただ気がついた。別に気を失っていたわけでも、何かから追われて逃げて、この森へと行き着いたわけではない。


 身体にも何の異常はなく、ただ森にわだかまる暑さが不快なだけだった。


 妖魔以上の何かに、仕掛けられた。


 (ゴースト)は血気類の専門家ではないが、闘うことは、勿論できる。だが、それはある一定の格に対する妖魔であって、人間には手出しできない類のものが、恐るべき数存在している。ヨルムンガンドとすら渡り合う妖魔が、確実にこの世には存在するとされている。


「何故、こんな事に……」


 チェスカルは一人だ。ハルヒコやルークは、見渡す限りではいない。下手に動く事もできずチェスカルは、ただ森の中佇んでいる。


 その手には銃を持っているが、役に立つのかさえ分からなかった。電子機器の類も動作すらしない。


 何かの罠だったのか。


 そもそもルークが手引きしたようなものだ。あのどうしようもないお調子者を、後で説教しなければならない――後があればの話しだが。


 チェスカルは地面に座り込む。しかしそれは地面というより根の塊だった。


 早く村へ行かなければいけないというのに。このようなところで、足止めを食えば食う程、命が失われかねない。


 しかしこうなれば、まず自分の命を救ってやらねばなるまい。


 敵が妖魔の場合どうするべきか。


 この森は襲って来た妖魔が持つ縄張りの内だろう。普通に歩いて出られるとは思えない。チェスカル自身が放置されている事にも、おそらく意味がある。獲物を簡単に逃がはずはないからだ。


 ――闘わねばならないか。


 いっそ、血を流すという手もなくはない。妖魔を流血で誘い戦闘に持ち込む。これだけ知力も力もある妖魔だ、自分の狩り場に他の血気類は入れまい。だがそれは、勿論あまりにも捨て身過ぎる。最後の最後に行うべき手段だ。


 妖魔の能力が未知数なだけ、手を考える事が難しく、汎用的なものしか手数にいれられない。


 しかし、ここで延々答えの出ない事を考えても仕方がないと、チェスカルは立ち上がる。


「正直、歩く事さえ危険だが」


 ダガーを抜くと、チェスカルは木に大きく傷をつける。


「物事は基本に帰すべし」


 出られる保証も、目標すらなく歩き出すと、木につけた傷が見えなくなる前に、切り傷を増やす。霧が立ち込めているので、少々傷は見失いやすいので、慎重過ぎる程、確認を怠らなかった。結局やっている事はパン屑を撒いて歩いているのと変わらない。


 チェスカルは猟犬なだけ、どうしても攻撃的な手を選びやすいが、ひとまず煩雑な考えを押しやって、これ程単純で穏やかな作業を選ぶ事にした。出られないと決めつけて、何も流血するまで自傷することもない。


 木につけた切り傷が確実に見えるように、何度も振り返りながら歩く。平地であるのは有り難いが、見渡せども樹木が生え揃う森が延々と続いているので、さすがのチェスカルでも心が折れそうになる。


 よくある展開で、進む先にはもう既に切り傷があり、自分は同じところを()()()()と周っていたとしたら。


 チェスカルはぞっとする思いで歩き続ける。


 ――暑い。


 むせ返るような暑さに汗を腕で拭う。体感的に気温が上がっているような。


 チェスカルは何度も腕で顔を拭って、息をついた、その瞬間、数歩先に子供が独りで立っていた。


 ――これは幻惑だ。


 体格から察するに五才の女児が、何の理由も無さげに、ぽつんと佇んでいる。


 ダークブラウンの柔らかそうな髪を胸まで伸ばしていて、顔立ちは慎ましやかで愛らしい。トレーナーとスカートを履いていて、特別裕福でも、貧しいというわけでもない、一般家庭の子供だという事が分かる。


 女児の焦点はどこに合っているのか今一判別が難しかった。ぼんやりと視線は虚空を揺れている。


 チェスカルが様子を見ていると、女児はスカートへ手を掛けて、自分でまくり上げてしまった。心理的に一瞬目を逸らしたが、視線を戻すとショーツを履いていない。その下生えのまだ無い部分から、更に下へ行くと、生々しい出血が続いていた。年齢的にぎりぎり経血かと過ぎったものの、自分の愚かさに固く目を閉じる。


 交渉の後だ。正しくは暴行されている。チェスカルは顔を(しか)める。幻覚の意味が分からなかった。


 女児は何かを喋っているが、チェスカルには何も聞こえなかった。元々声を出していないよう。


 この幻覚の目的が一切理解出来ない。女児の容貌は自国の一地域で見られる系統であり、珍しくはない。チェスカルに向かって、暴行された女児の訴えを聞かせて何がしたいというのだろうか。


 あまりの無意味さと痛々しさに、意識を逸らそうとする。


 音がぽつんと溢れる。


『……お兄ちゃん』


 チェスカルは耳が確かに捉えた言葉に、身も心も束縛される。


 呼ばれ慣れない呼称に、すっかり捕らわれて、女児を見つめていた。


 これは聞いてはいけなかったのかもしれない。知ってはいけなかったのかもしれない。


 心臓が大きく鼓動を打って、女児から後退りする。


 ――名前の庇護を破って来たというのか?


 一体どれ程の血気類だというのだろう。


 女児が一言大きく口を動かす。


 ……愛しているわ。


 チェスカルにはそれだけが読み取れた。


 少女は全身を青く光を灯したかと思うと、滲むように消えていった。


 チェスカルは木に寄り掛かって座り込むと、顔を拭う。


 ――何を言おうが、所詮は幻。


 そう自分に言い聞かせて、幻を堅牢な心から追い出す。


 チェスカルは一時、動く事を止めた。目を閉じ気息を調える。自分を御する術をチェスカルは知っている。何も知らない幼子ではない。


 そして何より、あまりにも血を見過ぎていた。


 チェスカルは立ち上がる。女児がいた場所には何もなかった。



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